プロフィール
柳田泰山 Yanagida Taizan
1950年〜(昭和25年〜)
昭和25年7月30日、書家・柳田泰雲の四男として生まれる。昭和50年、新義真言宗総本山根来寺において約1年半、仏門に入る。その後、経典の百箇寺奉納の大志を立て、平成6年の高幡不動尊へ般若理趣経の奉納を初めとして、浅草寺へ観音経、成田山新勝寺、永平寺、池上本門寺、奈良興福寺などへ納経。いずれも二千数百字から三千余字の大作ばかりである。平成11年8月、日本橋高島屋において「泰山楷書作品展」を開催。平成14年5月には、日中国交正常化30周年記念に際し、人民大会堂、釣魚臺国賓館、泰安市新市庁舎に作品を寄贈。平成22年5月、中国・温家宝首相日本公式訪問「文化界人士懇談会」出席し、会場にて席上揮毫。11月、中国美術館1号展庁で個展「柳田泰山北京書法展」を開催。平成27年2月、松竹株式会社主催「滝沢歌舞伎」10周年記念公演における北山宏光氏による大筆席上揮毫の指導。同11月、極真会館主催「全世界空手道選手権大会」に於いて巾7メートルの紙に大字「極真」を席上揮毫。
現在、主宰する泰書會会長。
書道教室 泰書會
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撮影/小池 雅章
柳田書法の歴史
柳田正齋 Yanagida Seisai
1797〜1888年(寛政9年〜明治21年)
1797年、下総国佐原に生まれる。名は貞亮。江戸に出て神田お玉ヶ池に在し、後に本所亀沢町に住す。儒学者、書家として名を成し、書は初め趙子昂を、後に王羲之を学び、一門を構えた。詩画にも長じ、温雅な中に凜とした風骨が窺われる作品をものした。身体強健であったことから全国を行脚したのか、処々の古寺等にその墨跡を見ることができる。その書はほとんど一貫して、江戸末期から明治に入る頃の、儒者風のまことに堅実な書であった。晩年の書は、人柄が滲み出るような作風となり、その芸術性が泰麓、泰雲、泰山へと継承され、柳田書法をさらに奥深いものにしていくのであった。
柳田泰麓 Yanagida Tairoku
1862-1932(文久2年-昭和7年)
1862年3月4日に生まれ、幼名を三四郎という。名は信興。書と漢学を父に学び、少年期にすでに書名を挙げ、兄の幾作に代って正齋の後継者となる。27歳で父・正齋の長逝に遭い、その翌年、生母を失う。その後、長く不遇の生活を続け、明治40年(1907)には生活苦と制作上の悩みから、友人知己へ自ら死亡通知を出し、号を半古から泰麓に改めた。書は正齋の法を守っていたが、改号を機に書風もまた一変した。明治43年(1910)、居を深川に定め、大正元年(1912)泰麓書道会を創立し、当時雑誌「書契」、「垂憲」などを発行した。この頃から書道展が盛んになり始め、日本書道作振会の創立に参加し、審査員となった。昭和7年(1932)2月11日、築地の料亭「八百善」に於て、脳血のため死去。数え年にして71歳であった。
柳田泰雲 Yanagida taiun
1902-1990(明治35年〜平成2年)
1902年1月1日、東京に生まれる。名は伊秀。泰麓の後継者として漢詩、漢文を専ら学ぶ。大正15年(1926)、25歳で第2回日本書道作振展で最高賞を、また第1回文部大臣賞を受賞。第2次世界大戦では、戦中・戦後を通して日中友好事業に尽力した。書は各体をよくしたが、特に楷書は格調高く、王羲之の再来と言われるほどであった。アメリカ主要都市およびパリで個展開催。中国山東省泰山玉皇頂上に、一文字1メートルに及ぶ「國泰民安」摩崖碑を建立し、中国文化部主催による巡回展を主要9都市で開催した。平成2年(1990)3月25日、山梨県八ヶ岳山麓のアトリエ磊々石窟に没す。88歳であった。