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2018年3月1日 8:42

3月1日

最近、「書」に関して、一体どれが「正しい」のか「正しくない」かが難しくなってきた様な気がする。過去の「書」の作品(中国古典書も含め)を見ると、少なくとも楷書作品には名筆が少ないのも事実である。だからと言って無理矢理に楷書を「正しい書」と断言も出来ない。では、本当の正しい「書」とは…。結論を言えば、見る側の受け止め方一つになる。よって「好き・嫌い」で判断される。自分の思ったものが「正しい書」となる。それ以外の作は解らないからノーコメントとなる。

さて、書人の立場から言えば…。意外と自信を持って書いている場合が多く、自分の作品に対しては満更でもないと思うのが当たり前でもある。他人の作品は、心のどこかで受け入れられない。不思議である。ところが、一般的には有名な中国古典書を見ると、大体が「これは素晴らしい」と言う。その根拠は前述した「好き・嫌い」からではないか。かく言う私自身は、かの王羲之・蘭亭序の本当の姿が解らない。皆が良いから良いと言うことになるのか。でも良いのである。これが「正しい書」である。技術なのか、人物像から察しての評価なのか。唐の太宗が寵愛したからか?

本題に戻すが、本当の「正しい書」とは結局難しい、と言うより解らない。だから、書く側としては、謙虚な気持ちで「書」に対峙しなくてはいけない。「自分で、これは正しい書」と言い切るのは禁物である。兎に角、どんな書体を書こうが「書」を冒瀆しない事を心がけて貰いたい。了見の狭い考え方は避けたい。私は、未だ「正しい書」が書けているかが解らない。だからこそ経文を書き、どこかに救いを求めているのかも。

取り留めの無い話ではあるが、心中を察して頂きたい。