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2020年2月1日 12:00

紙を扱うこと(泰斗 巻頭言より)

先月、墨の話をさせて頂いた関係で、今月号では紙の話、来月は硯、そして筆の話を述べてまいります。
私たち「書」に携わる者にとってこの文房四寳はなくてはならない大切な道具であります。ただ最近は、この価値基準が乱れ何でもござれの時代となってしまいました。心中穏やかではありません。
紙の起源は古代エジプトの「パピルス」が有名です。中国では前漢時代に麻の紙が発見されたと言われております。そして、日本では聖徳太子の時代、楮こうぞが和紙の原料となり、雁が んぴ皮 、麻、三み つまた椏、檀まゆみ、苦く じん参 など使われ、それが現代まで延々と受け継がれています。世はパソコン時代ではありますが、紙の需要はまだまだ続くでしょう。その紙を私たちは浪費しています。もっと紙を大切に扱わなければいけません。そうかといって洋紙で書けばいいのでしょうか? どうも洋紙と墨の相性がよくありません。又、紙は表具にまで影響します。特に表具の糊にも関係してきます。いくらいい墨、紙で書いても表具の裏打ち紙、糊で保存状態が違ってきます。
私自身、先代の紙に対する扱いを目の当たりにしております。まず、新しい中国の紙が手に入ると、一枚一枚、反物の様に丸めて(およそ二十五枚くらい)一本にし、書かれる机の後ろに、反物屋の如く、数十本仕分けをしながら置いてあります。きっと、自分の手で紙に触れ、この紙では、こんな物を書いたらという思いがあるのでしょう。見ながら、触れながら、紙を愛め でています。本当に先人は紙を大切に扱っています。
「書」を学ぶ者の中に、書いている最中に、駄目だからと言って途中で破棄してしまう方が大勢居られるでしょう。それは確かに仕方がないでしょうが、出来れば最後まで書き貫いて頂きたい。それが紙に対する敬意でもあります。また、書き損じは、余白が多ければ切り取り小品制作に使います。また、失敗作は捨てず、私たちが言う、押し紙として残しておきます。などなど、これからの時代、紙の資源が変わっていきますので、心して紙に向かわなければいけません。
紙は神さまであります。