2021年4月1日 10:00
追憶
追憶
正にこの稿を書き始めた時、大本山成田山新勝寺貫首・橋本照稔猊下の訃報を聞かされた。ここに哀悼の意を表したいと存じます。
訃報の記事は差し控えたいと思いながらも、頭の中には猊下の思い出が走馬灯の様に回っている。そこに先月の「存在」が不思議に重なった。「自分がいなくなれば、宇宙の存在もなくなる」との言葉に対し、ある大僧正からまさに「唯識」であると丁重なメールが届いた。私としてはそこまでの認識がなく、ただ直感で述べたまでの事である。また、ある友人から「存在」を「レゾンデートル」と言って「存在理由」や「存在価値」という意味で、特にフランスの哲学で使われた言葉であると教えられた。無知な自分が恥ずかしい。然し、自分にとって、その教えが脳の中に薄皮の如く貼られたことは事実である。
今から、四十数年前、橋本照稔猊下より、先代泰雲が「大本山成田山新勝寺」の石柱揮毫を依頼された。丁度、私の、親からの勘当があけ、根来から戻ったくらいの時この話があり、先代と橋本猊下の相談で「御護摩受付所」と大きさが三メートルもの大看板を書かされた。この未熟な者が、あの「書」を書かされたのは今では恥ずかしさで一杯である。
「無知」と「恥ずかしさ」これはどうにもならない感情である。
自分の存在は一体何なのか。猊下の訃報、「唯識」のお言葉、友人の「レゾンデートル」が繋がって仕方がない。ただ唯一、今自分が行うべき事は・・・一つしかないであろう。
改めまして、橋本照稔猊下に深く感謝申し上げ、ご指導を戴いた事を忘れず、自分の存在というものを確立することを誓いたいと存じます。
合掌。
