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2023年6月25日 10:00

「書」を志す者へ

「書」を志す者へ

昔、「名人」と「達人」の違いについて友人と語った事がある。これは、どちらとも言いがたく、何の結論に達する事もなく、結果、無責任ではあるがどちらでも良いとい笑い話になってしまった記憶がある。(実は達人が上であると・・・?)改めてそこを捻くり返して語ってみたい。

例えば武士の場合、自分が死なずに人を殺す事が出来、生涯を通す事の出来たのが「名人」。人を殺さず剣の修業のある域に達したのが「達人」と言う・・・かもしれない。また、弓の名人がいて、達人を求めて山奥に行き、出会ったら、その「達人」の老人が、その名人に「不射之射」という境地を見つけたという中国の逸話がある。そこから得られた話として、長年の間何かに打ち込んでいくと、常人では想像もできない世界に到達することがあるのだろう。また、西部劇では有名なワイアット・アープは弾を一度も体に受けていないという話も聞いた。これらはすべてフィクションであろう。然し、どこか頷けるものがある。

では「書」には「達人」「名人」がいるのであろうか・・・。それは解らない。余程修業をつむ事によってその域を垣間見る事ができようか。先人の中には居たであろう。勿論、私には論外、無理である。それでも何かを求め続けなくてはいけない。これが「迷人」の行きつくところかも知れぬ。

この号が会員諸氏の手元に届く頃には、泰書展の作品制作も佳境に入っているであろう。どうか、気後れ、気負いを取り払い、今の自分を曝け出して貰いたい。「名人」、「達人」にならなくてもよい。ただ、あるがままの自分が表現出来たならば、それがその方の極致の世界となる。

(機関誌 泰斗令和五年六月号 巻頭言より)