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「書」は時間を巻き戻さねばならない芸術
「書」は時間を巻き戻さねばならない芸術
いま私は、唐招提寺、石山寺、そして中国の寺院の経文などを日々書き続けている。とはいえ、まる一日を「書」のために費やせるわけではない。本来ならば、自分の「書」にもっと集中すべきなのだが、現実はそうもいかない。
さて、「書は時間を巻き戻さねばならない芸術」、ずいぶん大袈裟な題であるが、今朝、まさにその言葉を思い知る出来事があった。それは、一枚が約九百字からなる二枚の作品。その二枚目の七百字あたりで誤字をしてしまったのだ。一瞬、頭の中が真っ白になった。「これが現実か・・・」と思わず、諦めかけた。しかし、ここが勝負の分かれ道。失った時間-およそ三日分-を取り戻さねばならない。どこかで時を巻き戻したく、再び筆を取る決心をした。
長文の「書」において、字形の乱れはやむを得ないとしても、誤字は決して許されない。脱字については、泰書會の会員が泰書展に出品する作品であれば何百字という長文の中で一文字二文字が抜ける程度は致し方ない。だが、経文となれば話は別だ。誤字も脱字も、絶対にあってはならない。何千字にも及ぶ経文であっても、当然それは許されない。
三尺・六尺の和紙に千字以上を収める。そこに問われるのは、いかに誤字を避けるかであり、いかに「上手く」書くかではない。上手さは、経験と失敗の積み重ねの中から生まれるもの。今回の「頭の中が真っ白になる・・・」ような体験も、また貴重な糧となるだろう。
小楷(小さな文字の楷書)の難しさがここにある。これは私一人の苦しみではない。今、泰書展に向けて長文に取り組んでいる会員諸氏もまた、同じ想いを抱いているに違いない。同じ「書」に向き合い、同じ悩みを抱えながら、筆を進めているのだ。
さぁ~今夜は、三日分の時間を取り戻すための製作に励もう。
(機関誌 泰斗令和七年六月号 巻頭言より)

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3月1日
最近、「書」に関して、一体どれが「正しい」のか「正しくない」かが難しくなってきた様な気がする。過去の「書」の作品(中国古典書も含め)を見ると、少なくとも楷書作品には名筆が少ないのも事実である。だからと言って無理矢理に楷書を「正しい書」と断言も出来ない。では、本当の正しい「書」とは…。結論を言えば、見る側の受け止め方一つになる。よって「好き・嫌い」で判断される。自分の思ったものが「正しい書」となる。それ以外の作は解らないからノーコメントとなる。
さて、書人の立場から言えば…。意外と自信を持って書いている場合が多く、自分の作品に対しては満更でもないと思うのが当たり前でもある。他人の作品は、心のどこかで受け入れられない。不思議である。ところが、一般的には有名な中国古典書を見ると、大体が「これは素晴らしい」と言う。その根拠は前述した「好き・嫌い」からではないか。かく言う私自身は、かの王羲之・蘭亭序の本当の姿が解らない。皆が良いから良いと言うことになるのか。でも良いのである。これが「正しい書」である。技術なのか、人物像から察しての評価なのか。唐の太宗が寵愛したからか?
本題に戻すが、本当の「正しい書」とは結局難しい、と言うより解らない。だから、書く側としては、謙虚な気持ちで「書」に対峙しなくてはいけない。「自分で、これは正しい書」と言い切るのは禁物である。兎に角、どんな書体を書こうが「書」を冒瀆しない事を心がけて貰いたい。了見の狭い考え方は避けたい。私は、未だ「正しい書」が書けているかが解らない。だからこそ経文を書き、どこかに救いを求めているのかも。
取り留めの無い話ではあるが、心中を察して頂きたい。