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書き貫く
書き貫く
三十年の歳月をかけて、ただひたすら経文を書き続けてきた。筆を取り、心を静め、古風豊かな和紙に一字一字を刻むその営みは、単なる書写を超えて、一種の修行であり、辛いものであった。
書体は当然、楷書。整い、乱れず、常に同じ調子を保つことは、容易なことではない。しかしこの正しさの中にこそ、書き手の精神が反映される。楷書にはごまかしがきかない。心が乱れれば、線も歪む。だからこそ、毎回筆を取るたびに、己の内面と対峙しなければならなかった。厳しい世界でもあった。
墨を磨る時間もまた、かけがえのないものであった。墨の香に包まれながら、手を止め、古き良き伝統の墨を磨る時は、過去を思う時もある。そして、いつしか墨を磨る時、「書くこと」が目的ではなく、「書き貫くこと」そのものが生きる支えとなってきた。
日々経文を書き、同じ文字を書いていても、不思議と一度たりとも々「書」にはならない。体調、天候、心のわずかな揺れすらが筆先に現れる。逆にいえば、三十年の書の積み重ねには、その時その時のすべてが映し出されている。そこには、表現を超えた「精神の形」が宿っていると感じる。
書くという行為の先に、祈りがあり、願いがあり、そして己の静かな在り方があった。ただ書くのではなく、「書き貫く・・・」。この三十年間は、経文を通して自らを見つめ続けた、終わりなき道のりであった。
(機関誌 泰斗令和七年十月号 巻頭言より)

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善意の「書」とは
善意の「書」とは
この原稿を書いているのは六月下旬。八月号の巻頭言として、今の教室の様子を少し振り返ってみたいと思います。
現在、泰書展への出品作品の制作は、いよいよ仕上げの段階を迎えており、すでに完成された方もいらっしゃいます。ここ数カ月にわたって「書」と真摯に向き合ってこられた皆さんの姿勢は、作品の一つ一つからも伝わってきており、本当に素晴らしいと感じています。
それに呼応する様に、出品されない方々も、半紙清書に熱心に取り組まれています。その様子からも、強い熱意や集中力が感じられ、作品に対する真剣な気持ちが伝わってきます。このような雰囲気は、教室全体に自然と根づいてきております。
なぜこれほどまでに、一人ひとりの集中力や熱意が高まっているのでしょうか。それはきっと、「書」と向き合う意識が、お互い感化し合い、深まっているからだと思います。その様な積み重ねが、これから開かれる「第三十一回泰書展」の質を高めている要因ではないでしょうか。
私自身も、教室の真剣な空気に背中を押されながら、日々作品づくりに励んでいます。ふとした瞬間に、会員の皆さんの制作に向かう姿が思い浮かぶこともあり、それは決して他人事では無く、一緒に書き続けているという「仲間意識」のような温かな刺激になっています。皆さんの作品と自分の作品が、心のどこかで繋がっているように感じられるのです。
「書」に限らず、あらゆることの根底には「善」があるべきだと、私は信じております。この考え方は揺らぐことがありません。柳田家の家訓に「真善美」と言う言葉があります。「書」の本質とも深く通じ合う理念だと、改めて実感しています。
(機関誌 泰斗令和七年八月号 巻頭言より)

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2018年3月
3月1日
最近、「書」に関して、一体どれが「正しい」のか「正しくない」かが難しくなってきた様な気がする。過去の「書」の作品(中国古典書も含め)を見ると、少なくとも楷書作品には名筆が少ないのも事実である。だからと言って無理矢理に楷書を「正しい書」と断言も出来ない。では、本当の正しい「書」とは…。結論を言えば、見る側の受け止め方一つになる。よって「好き・嫌い」で判断される。自分の思ったものが「正しい書」となる。それ以外の作は解らないからノーコメントとなる。
さて、書人の立場から言えば…。意外と自信を持って書いている場合が多く、自分の作品に対しては満更でもないと思うのが当たり前でもある。他人の作品は、心のどこかで受け入れられない。不思議である。ところが、一般的には有名な中国古典書を見ると、大体が「これは素晴らしい」と言う。その根拠は前述した「好き・嫌い」からではないか。かく言う私自身は、かの王羲之・蘭亭序の本当の姿が解らない。皆が良いから良いと言うことになるのか。でも良いのである。これが「正しい書」である。技術なのか、人物像から察しての評価なのか。唐の太宗が寵愛したからか?
本題に戻すが、本当の「正しい書」とは結局難しい、と言うより解らない。だから、書く側としては、謙虚な気持ちで「書」に対峙しなくてはいけない。「自分で、これは正しい書」と言い切るのは禁物である。兎に角、どんな書体を書こうが「書」を冒瀆しない事を心がけて貰いたい。了見の狭い考え方は避けたい。私は、未だ「正しい書」が書けているかが解らない。だからこそ経文を書き、どこかに救いを求めているのかも。
取り留めの無い話ではあるが、心中を察して頂きたい。