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一つ終えれば・・・
一つ終えれば・・・
昔、和歌山の根来寺で約一年四ヶ月程、お世話になったことがあります。在家の身でありながら、総本山の門をくぐらせていただき、貴重な日々を過ごす事が出来ました。
私の仏道の師である関尚道猊下は、当時すでに「稀に見る高僧」と称される方で、そのような方に仕えることは、身の引き締まる思いというより、むしろ気が滅入るほどの重圧を感じていました。
そんな私に、師は「君は本堂と奥の院の掃除だけをすればよい。あとは経文を書いて過ごしなさい」とだけ仰いました。とは言うものの実際には、参拝団の対応に対し右往左往、慣れない法要の準備、また、給仕や布団敷きなど、多くの雑務にも追われ、慌しい日々を送っていました。その経験は貴重なものとして、その一つ一つが修行だったと今では思っています。これは感謝あるのみです。
忘れられない一つに、奥の院の石畳の回廊を掃除した経験です。掃いても掃いても落ち葉が降り続け、果てしない作業にため息をつきながら掃除をしていた時、ある高僧がこう言ってくださいました。「落ち葉を一枚拾えば、一つ何かが終わり、何かを得ることになるのです」。当時は、それすら理解出来なかった自分でした。その言葉を真に受け入れられたのは百寺納経後半頃でありました。結果、その金言が百寺納経の歩みから満願成就へとつながっていきました。
人は、苦しい時にこそ、自分が何をするべきかを問われる・・・今年は、例年以上にそのことを深く実感する一年となりました。
書人・柳田泰山に関わられている全ての方に心より感謝申し上げます。来年も何卒、宜しくお願い申し上げます。
(機関誌 泰斗令和七年十二月号 巻頭言より)
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2月1日
ユネスコ文化遺産
最近、「書」がユネスコ文化遺産に登録されるかもと言うニュースを聞いた。決して異論を唱えるつもりはないが、疑問が生じた。凡人にはほど遠い世界の話である。有形文化遺産と共に、世界的に何かを守ろうとしているのは理解している。
「書」は中国から日本に伝わったものが主である。日本の「書」は、平安時代に遡る。中国の「書」は甲骨文字に遡る。確かにそれらは無形文化遺産の価値はある。然し、一番恐れているのは、現代の日本、中国の「書」までが無形文化遺産と称して、やたら強調されるのは遺憾である。現代の「書」には芸術とはほど遠いものがある。
そもそも、「書」は文字を伝えるのが主。近代に於いて、冒頭に述べた平安時代の「書」の美しさを文化芸術として重要視されている。然し、その「書」は貴族のものであり、一般大衆からは、かけ離れているものである。私自身は「寺子屋」で教わる「お習字」が好きである。大衆芸術であるから好きだとも思っている。私自身は俗人でありながら、「書」を志している。文化、遺産、伝統に拘らず、先人が築いた「書」を、好き勝手に書いているだけである。
現代の芸術は徒党を組んでの啓蒙活動である。個では世の中に通じないのである。「書」の場合も日展が中心で、「書」の存在を明らかにしようとも努力もしている。「芸術」とは・・・」難しい。
この稿を進める中、「自分の存在を残しておきたい・・・」と自己主義的な思いが浮かんできた。それで良いであろうとも思っている。だから「ユネスコ文化遺産」のニュースを聞いた時、何か釈然としないものがあった。「書」を黙々と書いていれば良いのに、誰かが余計な動きをして、この様になってしまった。誤解して貰いたくないのは、それが悪い訳ではない。私自身の考えであると言う事を強調しておく。
ある方が、「ご先代、柳田家の作品はこれからどうなるのですか・・・」と尋ねられた。「作品に力があれば生き残っていくでしょう」と答えた。文化がどうのこうのは、後の方が考えれば良いと思う。今は出来るだけ、個になり「書」を書くしかない。
(機関誌 泰斗令和六年二月号 巻頭言より)
