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是非に及ばず
是非に及ばず
いい言葉だと思った。これを「書」の上での例えとして、私の思いを述べてみる。ただ見当違いな場合もあるが、そこは許して貰いたい。
最近の出来事に、経文の失敗が続いてしまった時期があった。珍しいことである。普段なら、せいぜい一枚か二枚、四、五百字ほど書いたところで、文字の書き違いが生じる程度である。それも、筆が馴れて軽率な心で間違える。ところが今回は、四枚続けざまの失敗であった。さすがに自分の愚かさが、身に滲みて感じられた。
これを修行というならば、この歳では無意味にさえ思える。若いうちの修行はいくら積んでも将来があるが、晩年ともなれば、かえって厄介なものとなる。一瞬にして、これまで積み重ねてきたものが、すべて気泡のように消えてしまう感覚に陥る。それでも、歩みを止めるわけにはいかず、なお経文を書き続けなければならない。
折しも、新聞のコラムに織田信長の「是非に及ばず」の言葉が紹介されていた。ふと、我に返った気がした。「善悪を論じる余地もなく、避けられない状況をそのまま受け入れること」との解説である。
とはいえ、現実には、改めて筆を取ることが怖くなった。また失敗するのではないか、その不安が先に立つのである。今の状況下では、よほど覚悟が必要であろう。これだけ長年、経文を語るように書き続けてきたにもかかわらず、このような状態に陥るとは、精神力、集中力、忍耐といったものすら無用に感じられてしまう。それでもなお、「是非に及ばず」と受け止めるより他に、道はないのであろうか。
(機関誌 泰斗令和八年二月号 巻頭言より)
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4月1日
追憶
正にこの稿を書き始めた時、大本山成田山新勝寺貫首・橋本照稔猊下の訃報を聞かされた。ここに哀悼の意を表したいと存じます。
訃報の記事は差し控えたいと思いながらも、頭の中には猊下の思い出が走馬灯の様に回っている。そこに先月の「存在」が不思議に重なった。「自分がいなくなれば、宇宙の存在もなくなる」との言葉に対し、ある大僧正からまさに「唯識」であると丁重なメールが届いた。私としてはそこまでの認識がなく、ただ直感で述べたまでの事である。また、ある友人から「存在」を「レゾンデートル」と言って「存在理由」や「存在価値」という意味で、特にフランスの哲学で使われた言葉であると教えられた。無知な自分が恥ずかしい。然し、自分にとって、その教えが脳の中に薄皮の如く貼られたことは事実である。
今から、四十数年前、橋本照稔猊下より、先代泰雲が「大本山成田山新勝寺」の石柱揮毫を依頼された。丁度、私の、親からの勘当があけ、根来から戻ったくらいの時この話があり、先代と橋本猊下の相談で「御護摩受付所」と大きさが三メートルもの大看板を書かされた。この未熟な者が、あの「書」を書かされたのは今では恥ずかしさで一杯である。
「無知」と「恥ずかしさ」これはどうにもならない感情である。
自分の存在は一体何なのか。猊下の訃報、「唯識」のお言葉、友人の「レゾンデートル」が繋がって仕方がない。ただ唯一、今自分が行うべき事は・・・一つしかないであろう。
改めまして、橋本照稔猊下に深く感謝申し上げ、ご指導を戴いた事を忘れず、自分の存在というものを確立することを誓いたいと存じます。
合掌。
