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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その32
今回は~柳田泰山が納経した秋田県の鳳来院で対談しました。(百寺納経ドキュメンタリー)~です。
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緊張
緊張
この稿を進めているのが一月十七日の晩・・・毎月の月曜から金曜、浜松、奈良、京都のお稽古の第一週目が終了した。毎年ではあるが、一月は新たなる気持ち、心を改めて・・・などの思いがある。ところが、今年のスタートは今までに無い状況の様子と思っている。少なくとも今日まで緊張感を維持している感じである。ただ、毎日、気を張っているつもりはない。時にはリラックスしている時間もある。然し、どこかしら緊張感が漂っている。私として不思議すら感じている。
今年一年を期待もせず、日々無事である事が何よりではあるが、「書」に対しては焦りがある。欲張っている所もある。「あれを書きたい・・・これも書きたい・・・」頭の中で思い巡らしている。それは一貫性のないものなのかも知れない。それでもよい、無いよりましである。
決して、充実された日々を過ごしている訳でもない。でも、慎重な日々を過ごしている。矛盾であろう。この歳で何が解ろうか。でも、歳を重ねたお陰で何かを得られたのも事実である。それが前述した気持ちでは無かろうか。歳を重ねる事はいい事である。
実はこの稿の思いつきは、月曜のお稽古の真最中であった。クルクル頭が回ってしまったようだ。会員の姿を見ながらの思いでもある。その一瞬を大切にしなければいけない。
(機関誌 泰斗令和五年三月号 巻頭言より)

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その31
今回は~【ミニチュア書道】世界一小さい?爪楊枝サイズの書けるミニチュア習字セット~です。
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福岡 柳田泰山書展「神の道」開催のお知らせ
この度、縁あって、福岡で書展を開催する運びとなりました。
今年、上野の森美術館で第二十八回泰書展を開催致しました折、特別展として「アート展」と称し、今までとは違った観点の小展覧会を開催致しました。
書道の概念は文房四寳(墨・筆・紙・硯)から成り立っているものが筋でもあります。然し、近代において文房四寳を使用しながらもモダンアートにと言う表現で「書」の領域が広がりました。賛否両論はありますが、芸術の域としては決して否定も出来ないと私は思っております。ただ、本筋の「書」そのものの鍛錬を怠ってはいけない事も事実であります。
「書」の一点一画は、部分として見ますと美しい線が画かれているのもあります。最たるものは、日本の書芸術として仮名世界がそうではないかと思います。以前、その仮名の線の一部を切り取り拡大をしたところ、一本数ミリの中に活き活きとした線を発見することも出来ました。
現在、楷書を中心とした試行錯誤が顕著になっており、今後の「書」に如何に対峙していくかの模索の心境になっております。今回の様な一つのきっかけで、小さき世界の発見があり、そこから原点回帰に繋がる事を意識しつつもあります。今回の書展は自分に対しての新たなる挑戦の一歩、それが、どの様に「楷書」の道に繋がるかの期待感もあります。
初めての九州での書展、どうか九州・福岡に在住のお知り合いがございましたならば、お知らせして頂き、ご高覧頂ければ幸いです。
私自身、十一月三日(木・祝)・四日(金)の午前十一時より午後五時まで会場におります。お声をかけて頂ければ幸いです。
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4月1日
追憶
正にこの稿を書き始めた時、大本山成田山新勝寺貫首・橋本照稔猊下の訃報を聞かされた。ここに哀悼の意を表したいと存じます。
訃報の記事は差し控えたいと思いながらも、頭の中には猊下の思い出が走馬灯の様に回っている。そこに先月の「存在」が不思議に重なった。「自分がいなくなれば、宇宙の存在もなくなる」との言葉に対し、ある大僧正からまさに「唯識」であると丁重なメールが届いた。私としてはそこまでの認識がなく、ただ直感で述べたまでの事である。また、ある友人から「存在」を「レゾンデートル」と言って「存在理由」や「存在価値」という意味で、特にフランスの哲学で使われた言葉であると教えられた。無知な自分が恥ずかしい。然し、自分にとって、その教えが脳の中に薄皮の如く貼られたことは事実である。
今から、四十数年前、橋本照稔猊下より、先代泰雲が「大本山成田山新勝寺」の石柱揮毫を依頼された。丁度、私の、親からの勘当があけ、根来から戻ったくらいの時この話があり、先代と橋本猊下の相談で「御護摩受付所」と大きさが三メートルもの大看板を書かされた。この未熟な者が、あの「書」を書かされたのは今では恥ずかしさで一杯である。
「無知」と「恥ずかしさ」これはどうにもならない感情である。
自分の存在は一体何なのか。猊下の訃報、「唯識」のお言葉、友人の「レゾンデートル」が繋がって仕方がない。ただ唯一、今自分が行うべき事は・・・一つしかないであろう。
改めまして、橋本照稔猊下に深く感謝申し上げ、ご指導を戴いた事を忘れず、自分の存在というものを確立することを誓いたいと存じます。
合掌。