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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その112
今回は~【お遊び回】過去最低?3人の合作アート作品を書いてみた結果~です。
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今回は~【書道に年齢は関係ない】学生展の作品を背景に色々と話します。~です。
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今回は~【検証】運筆のスピードで「書」はどう印象が変わるのか?~です。
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一つ終えれば・・・
一つ終えれば・・・
昔、和歌山の根来寺で約一年四ヶ月程、お世話になったことがあります。在家の身でありながら、総本山の門をくぐらせていただき、貴重な日々を過ごす事が出来ました。
私の仏道の師である関尚道猊下は、当時すでに「稀に見る高僧」と称される方で、そのような方に仕えることは、身の引き締まる思いというより、むしろ気が滅入るほどの重圧を感じていました。
そんな私に、師は「君は本堂と奥の院の掃除だけをすればよい。あとは経文を書いて過ごしなさい」とだけ仰いました。とは言うものの実際には、参拝団の対応に対し右往左往、慣れない法要の準備、また、給仕や布団敷きなど、多くの雑務にも追われ、慌しい日々を送っていました。その経験は貴重なものとして、その一つ一つが修行だったと今では思っています。これは感謝あるのみです。
忘れられない一つに、奥の院の石畳の回廊を掃除した経験です。掃いても掃いても落ち葉が降り続け、果てしない作業にため息をつきながら掃除をしていた時、ある高僧がこう言ってくださいました。「落ち葉を一枚拾えば、一つ何かが終わり、何かを得ることになるのです」。当時は、それすら理解出来なかった自分でした。その言葉を真に受け入れられたのは百寺納経後半頃でありました。結果、その金言が百寺納経の歩みから満願成就へとつながっていきました。
人は、苦しい時にこそ、自分が何をするべきかを問われる・・・今年は、例年以上にそのことを深く実感する一年となりました。
書人・柳田泰山に関わられている全ての方に心より感謝申し上げます。来年も何卒、宜しくお願い申し上げます。
(機関誌 泰斗令和七年十二月号 巻頭言より)
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8月26日
第27回泰書展(8月26日〜31日)
東京上野の森美術館にて、第27回泰書展が開催されます。
準備中の会場の様子と、泰山先生から御挨拶。
宜しくお願い致します。(HP更新担当)
8月2日
言霊は「書」に表せない・・・
ここで「言霊」について敢えて詳しく述べるつもりはありません。皆様の方が十二分に承知していると思います。ただ、若い誌友者の方々に簡単に述べておきます。「言霊」とは言語の持っている霊妙な力。大昔から日本の文献に残されています。「言葉に霊妙な力があって、その言葉通りの事象がもたらされていると信じられていた。」そのようなことが万葉集にも書かれています。その他にも諸説があって、私自身も正確には理解し難いものと考えています。
さて、安易に「言霊」を使うのは慎むべきでないでしょうか。今、書人の立場として「言霊」的内容のものを書くというのが容易ではない事を感じ始めました。
色々な場面で簡単に「言霊」と使われていますが、それも疑問です。疑問である以上、「書」で認めるのも尚更変でしょう。人間が発する言葉を「書」に書くほど難しいものはありません。どうしたらいいものか…。意味深ぶって書いて、如何にも「書」でござるというのもおかしい…。では「書霊」と言う言葉があるでしょうか。もしかしたらあるかも…。それは「言霊」以上に難しい…。この「書」には「霊」が入っているとは言い切れません。
今の自分は何をもって「書」に没頭しているのでしょうか。多分、今出来る事をしているしかありません。「言心聲也」(げんはこころのこえなり・言葉は心が声に表れたものである)という語があります。私自身は「書心聲也」で生きるしかないでしょう。
今も矛盾だらけで経文を徒然と書いています。その合間に思いついた事ではありますが、やはり煩悩なしでは「書」は書けません。
