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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その11

今回は【一文字難読漢字】

『世界で1番難しい漢字』を書いていただきました。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

コロナ禍の泰書展

一昨年から世界中がコロナによる激震の日々が続いている。私たちより先人、諸先輩の皆様は戦争という悲惨な経験をされたにも関わらず、ここに天災・人災にまた遭遇してしまった。誠に不幸な出来事である。人間は良きにつけ悪しきにつけ不思議な生き物である。その災害の大多数は人災が原因であると思う。きっとそれには私も加担している。人災があって天災を引き起こしている。考え方によっては、このコロナは人類に対する警鐘ではなかろうか・・・。これがもっと進めば人類破滅にもなりかねない。日本は明治、大正、昭和、平成そして令和と急速な発展を成し遂げてしまった。結果論ではあるが、そこには行きすぎもあったのであろうか。

平和のため、と戦争を繰り返し、平和のための文明発展があり、その功罪として文化も自然も危機に瀕している。時々、高層ビルから眺める東京は光った墓石に見える。光が無くなれば、巨大な墓石になる。反対に光が無くなれば月夜が見られる。「灯火親しむ・・・」が死語になってきている。それに自分も加担している。二年前、中国少林寺に逗留した時の月夜が懐かしくなった。きっと人にはどこか自然を愛でていたい心がある筈である。モニターで自然を観、世界遺産を称する一方で自然を破壊している愚かな行為が今なお続いている。やはり、このコロナは天罰か。であれば尚更、人間は文明、成長・発展を中断して踏み留まる姿勢を見せていかなければならない。

この稿を考えている時、パラリンピックが開催された。これも賛否両論。参加されている方には、今までの努力に対して敬意を表したい。一方で、物議を醸し出している輩も多くおり、ではその人々が世界を救えるかといったら救えないであろう。無責任な輩も多くいる。その一人に自分も加わっている。そんな自分の醜さを感じながら、この泰書展が開催された。それは矛盾と好奇の間はざまにある。無謀な決断。でももし開催しなかったら・・・が脳裏を掠める。それは絶望的な気持ちにもなってしまう。

今回、それがどう批難されても仕方がない。心の中で不安な日々を過ごしている。

さて今日は、これから泰書展の陳列に行くのである・・・。(泰書會 機関紙泰斗10月号 巻頭言より)

コロナ禍の泰書展

書展を終えて

(泰書會発行 泰斗10月号より)
今月、巻頭言に第二十七回泰書展前日に書いた「コロナ禍の泰書展」を掲載致しました。ところが、今号で泰書展の受賞者のお名前、開催記事が出ているのに拘わらず、この文を来月回しにするのはやや遅すぎではないかと判断し、この巻末言として掲載の運びとなりました。世はスピード時代。ここにも速さを競う仕事が重なり、それは泰書會のモットーとしてはおりますが、かなりきつい事でもあります。やはり、少々、歳の重なりがそう感じさせたのではないでしょうか。

さて、コロナ禍であったにも拘わらず、予想以上の来場者がありました事、ここに改めて感謝の意を表したいと存じます。主宰者の立場として、不安で仕方がない毎日でありました。反対に昨年開催されなかったので、多少は楽しみにされていた方もおられました。これも感謝の一言であります。

出品は例年から比較して三割弱は減りましたが、これも仕方がない事です。来年は事態が収まる事を願いつつ、改めて今日から新たなる一歩を進めたいと存じます。また、今回の特徴として、初出品の方も多くおりました。私の理念の中に「温故知新」があります。新人は良き先輩から学び取り、自身の精進・・・、経験者は後進の純粋な「書」を再確認、自身の励みとして頂きたい、そんな思いでもありました。出品の皆様、本当にありがとうございました。

新人の「書」は、確かに満足できるものではありませんが、如何に基本が大切かを再認識させて頂きました。私自身の指導方針がそれ程、間違っていなかったと確信も致しました。反対に、経験豊かな出品の作品には、線質の妙を感じさせて頂きました。柳田流の書法に自身の個性が確り表現されておりました。その新人、ベテランが両輪となり書展を動かして頂いたことが今回の総評でもあります。

きちっとした「書」を書くことが生き甲斐と再自覚しながら、会員諸氏と共に励んでいきたく書展の最終日にこの稿を纏めさせて頂きました。

最後に、第一回からの開催で応援をして頂いた関係各位、並びに御来賓の皆々様に、会を代表させて頂き深く感謝の意を表したいと存じます。

書展を終えて

3月10日

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その3

泰山先生のYoutubeチャンネル3回目。

今回は、先生に今どきの若者用語を書いていただいたようです。

3月1日

存在

作品を書いていてふと思った。一体、人間はどこに向かっているのだろうか。勿論、最後は召されるわけだから。その瞬間までの存在は? 歳をとるとそんな事しか考えなくなってしまうのか。やはり自分が一番大切だから・・・。コロナ禍であっても、平穏な時であっても同じである。その存在が解らなくなると命を粗末にしてしまうケースがある。そんなに命は軽いのか。

書人の立場として、これからの在り方をここに述べる。「やはり命ある限り書き続けるのだ・・・」通常の答えである。ただ、今は自分の「書」に対して新たなる迷いが生じている。「上手い、下手ではない」ということではない。一体、自分の「書」の価値というものは・・・である。決して大っぴらに評価される事を求めている訳ではない。寧ろ丁寧に「書」が守られれば良いと思う。だからこそ自分の存在の中で大切にするしかない等々。ある人から「もっと生活に苦しんでいる人が大勢いて、そんな余裕なんかない・・・生きるのに精一杯」と言われた。しかし相手の事をとやかくいうのは僭越でもあると思った。自分にしか解らない事が沢山ある。「自分の存在とは何であるか」考えた事があるのであろうか。

最近、朧気に解った事。「自分がいなくなれば、宇宙の存在も無くなる」「宇宙自体が自分である」。穿った言い方ではある。自分の存在が無くなれば一体どうなるのであろう。これは決して不吉な予言ではなく、そこまで何とかして生きていかなければならないという気持ちの表れであろう。

巻頭言を書く場合、時にはストレスを感じる。それはコロナ禍の影響だけではない。コロナも精神的迷いも自分の存在の一部である。だから自己嫌悪を感じる時もある。