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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その125

今回は~【第31回泰書展】初日レポート!!暑さを超えて、海外からも大勢来場!~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124

今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。

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今回は~【難航してます。】六千字の作品制作の様子をお届けします。~です。

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今回は~【千字文、再び】2週間をかけて千字文を書き上げる。~です。

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今回は~【納得するまで書く】中国の個展で使う大字を書きます。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その120

今回は~【癒され動画】3歳の子が書道デビュー!?泰山先生と70歳差の夢の初コラボ!!~です。

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是非に及ばず

是非に及ばず

いい言葉だと思った。これを「書」の上での例えとして、私の思いを述べてみる。ただ見当違いな場合もあるが、そこは許して貰いたい。

最近の出来事に、経文の失敗が続いてしまった時期があった。珍しいことである。普段なら、せいぜい一枚か二枚、四、五百字ほど書いたところで、文字の書き違いが生じる程度である。それも、筆が馴れて軽率な心で間違える。ところが今回は、四枚続けざまの失敗であった。さすがに自分の愚かさが、身に滲みて感じられた。

これを修行というならば、この歳では無意味にさえ思える。若いうちの修行はいくら積んでも将来があるが、晩年ともなれば、かえって厄介なものとなる。一瞬にして、これまで積み重ねてきたものが、すべて気泡のように消えてしまう感覚に陥る。それでも、歩みを止めるわけにはいかず、なお経文を書き続けなければならない。

折しも、新聞のコラムに織田信長の「是非に及ばず」の言葉が紹介されていた。ふと、我に返った気がした。「善悪を論じる余地もなく、避けられない状況をそのまま受け入れること」との解説である。

とはいえ、現実には、改めて筆を取ることが怖くなった。また失敗するのではないか、その不安が先に立つのである。今の状況下では、よほど覚悟が必要であろう。これだけ長年、経文を語るように書き続けてきたにもかかわらず、このような状態に陥るとは、精神力、集中力、忍耐といったものすら無用に感じられてしまう。それでもなお、「是非に及ばず」と受け止めるより他に、道はないのであろうか。

(機関誌 泰斗令和八年二月号 巻頭言より)

是非に及ばず

7月1日

「楷書と私」

「書」は近代では一般的に、漢字、仮名、篆刻を学ぶものと言われている。そして、その中から特に興味を持ったものを見つけて専念する事になる。

私の場合、当然、先代の影響から必然的に楷書を書くようになった。ただ若い時、先代は「仮名も学べ」とよく言っていた。今の印象では楷書と比較する事は出来ないが、仮名もかなりレベルの高い「書」と思っている。そして、日本人であれば仮名の重要性は感じているのではなかろうか。

子供の時から、それとなく泰雲楷法を学び、二十歳過ぎに中国唐代の楷書を見た時の驚きは今も変わらない。今から千四百年前の楷書を、今もって多くの者が学び続けているのがその証である。

仮名は、形が至簡であると言われている。楷書はその反対で繁用的であると思う。そこに「一点一画に祈り、一線に思いはせ、心深くとも、筆意に添わず、墨、黙して答えず、造形未だ風格を示現せず、益々深さを感ずるのみ」と先人の言葉にある。

「書」は己を見いだすものである。では己とは何か? それは六十数年、筆を持ったとしても解らぬものであろうか。冒頭に述べた完備した唐代楷書、その上にさらに構築した先代の楷書…。それらが両輪の如く躍動していても、己の姿が見えぬ。もどかしさの塊である。

「書」の精神性は、技と心の一体性にある。どちらが欠落してもいけない。その精神性には強靱なる魂がなければいけない。楷書の線は強靱でなければならない。美しいものには強さが存在している。それが真の美しさである。悟りではないが、今の正直な心境である。そして楷書に対する熱い思いでもある。

(機関誌泰斗令和4年7月号 巻頭言より)