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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その43
今回は~【人生観が赤裸々に!?】神回トークショー!!「書」に明け暮れた72歳、書道家の人生~です。
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ビバルディの四季
ビバルディの四季
地球温暖化のため、世界各地で天候異変が続いております。当然、作物等にも被害が出て、大変な状況が続いております。最近、日本は二季になりつつあると言われております。夏と冬になるのだろうか。自然の変化が異様に感じられます。そして、それは人災が原因であると周知されてます。「四季折々」の言葉は過去の話になってまいります。この原稿を進めている中、「ビバルディの四季」が思い出されました。四季が無くなる・・・。因果関係の無い戯言であります。
「書」との因果関係も無いかも知れません。然し、「書」は自然の中の物を使って用具として使用しております。神は木と水から、墨は木を燃やし煤と膠、筆は動物の毛、硯は自然の石から出来ております。自然の変化は「書」にも影響しかねないものではないでしょうか。
四君子という言葉があります。「蘭菊梅竹」を草木の中の君子として称えた言葉です。季節感があったからこそ、この様な言葉が生まれてきます。
人間も、自然界から生まれたはず。そしてそれを自らの手で壊していく、不思議な生き物であります。「書」を駄目にしたのは書家であるとも言われております。どの分野でも同じ事が言えるでしょう。もちろん未来が暗い訳ではありません。新しく美しい世界が生まれてくる筈と信じております。ただ未来は私には見る事が出来ません。だからこそ、老婆心の戯れ言として述べているだけです。
本部教室でビバルディ「四季」を聴きながらの巻頭言となりました。
(機関誌 泰斗令和五年十一月号 巻頭言より)
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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その42
今回は~【書道家の道具紹介パート3】最高級の硯と墨が登場!!書が上手くなるコツは◯◯を大事にすること。~です。
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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その41
今回は~【書道家の道具紹介パート2】最高級の紙と印が登場!!書家が道具にこだわる理由とは?~です。
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福岡 柳田泰山書展「神の道」開催のお知らせ
この度、縁あって、福岡で書展を開催する運びとなりました。
今年、上野の森美術館で第二十八回泰書展を開催致しました折、特別展として「アート展」と称し、今までとは違った観点の小展覧会を開催致しました。
書道の概念は文房四寳(墨・筆・紙・硯)から成り立っているものが筋でもあります。然し、近代において文房四寳を使用しながらもモダンアートにと言う表現で「書」の領域が広がりました。賛否両論はありますが、芸術の域としては決して否定も出来ないと私は思っております。ただ、本筋の「書」そのものの鍛錬を怠ってはいけない事も事実であります。
「書」の一点一画は、部分として見ますと美しい線が画かれているのもあります。最たるものは、日本の書芸術として仮名世界がそうではないかと思います。以前、その仮名の線の一部を切り取り拡大をしたところ、一本数ミリの中に活き活きとした線を発見することも出来ました。
現在、楷書を中心とした試行錯誤が顕著になっており、今後の「書」に如何に対峙していくかの模索の心境になっております。今回の様な一つのきっかけで、小さき世界の発見があり、そこから原点回帰に繋がる事を意識しつつもあります。今回の書展は自分に対しての新たなる挑戦の一歩、それが、どの様に「楷書」の道に繋がるかの期待感もあります。
初めての九州での書展、どうか九州・福岡に在住のお知り合いがございましたならば、お知らせして頂き、ご高覧頂ければ幸いです。
私自身、十一月三日(木・祝)・四日(金)の午前十一時より午後五時まで会場におります。お声をかけて頂ければ幸いです。
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7月1日
「楷書と私」
「書」は近代では一般的に、漢字、仮名、篆刻を学ぶものと言われている。そして、その中から特に興味を持ったものを見つけて専念する事になる。
私の場合、当然、先代の影響から必然的に楷書を書くようになった。ただ若い時、先代は「仮名も学べ」とよく言っていた。今の印象では楷書と比較する事は出来ないが、仮名もかなりレベルの高い「書」と思っている。そして、日本人であれば仮名の重要性は感じているのではなかろうか。
子供の時から、それとなく泰雲楷法を学び、二十歳過ぎに中国唐代の楷書を見た時の驚きは今も変わらない。今から千四百年前の楷書を、今もって多くの者が学び続けているのがその証である。
仮名は、形が至簡であると言われている。楷書はその反対で繁用的であると思う。そこに「一点一画に祈り、一線に思いはせ、心深くとも、筆意に添わず、墨、黙して答えず、造形未だ風格を示現せず、益々深さを感ずるのみ」と先人の言葉にある。
「書」は己を見いだすものである。では己とは何か? それは六十数年、筆を持ったとしても解らぬものであろうか。冒頭に述べた完備した唐代楷書、その上にさらに構築した先代の楷書…。それらが両輪の如く躍動していても、己の姿が見えぬ。もどかしさの塊である。
「書」の精神性は、技と心の一体性にある。どちらが欠落してもいけない。その精神性には強靱なる魂がなければいけない。楷書の線は強靱でなければならない。美しいものには強さが存在している。それが真の美しさである。悟りではないが、今の正直な心境である。そして楷書に対する熱い思いでもある。
(機関誌泰斗令和4年7月号 巻頭言より)