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ジグソーパズル
ジグソーパズル
最近、細字を書いているとジグソーパズルを思い出す。一字一字のピースを重ねて行く内に一つの作品が仕上がる。然し、いつも途中でそのピースが見つからず失敗に至る。一体、何をしているのか・・・。
今年の泰書展では三千ピースを二点仕上げた。それも間違いがなく(不出来は別として)纏め上げる事が出来た。
ところが、般若心経や大悲呪などの経文では時々、ピースを無くしてしまう。二百字や四百字のピースなのに、すぐに一つのピースが失われてしまう・・・。まるで自分の人生みたいなもの。
人生は希望があったり、失望があったり、ジグソーパズルとしては永久に仕上がらないもの。今の状態、年齢からくる体力が失われているのか。それはただの言い訳に過ぎない。毎日、コツコツ仕上げているのに、途中で何かを無くしてしまう。放棄してしまえばいいのにと考えられるが、それは人生そのものを放棄するのに等しい。困ったもんだ・・・。もう晩年なのに、うかうかしていられない。その焦りがあるのか。それも違う。やはり力不足であろう。この繰り返しである。
この瞬間、経文の文字を間違えてしまい、気を取り直し、この稿を書き始めた。毎度の事ながら、一つのパズルを作るのに試練としか言いようがない。たかが「書」である。その間違いは誰にも解らないかも知れない。特に何千字のピースは解らない。でも自分が許しがたい。こんなにチャランポランな自分が、そこは恐れおののいている。
天の声がいう。「誰も解りはしない。適当に書いたら・・・一層の事、辞めたらどうだ・・・」それは悪魔の囁きであろう。そして善の天使は何も言わない。
(機関誌 泰斗令和六年十一月号 巻頭言より)
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4月3日
「信心」と「書」
平成六年から百寺納経が続いている。現在、八十数箇寺と長い年月が経過している。さて、これだけ皆様のご加護を受けているのにも拘わらず、果たして自分には信心があるのであろうか。以前、自分の作品に物足らなさを感じた時があり、何かが不足しているのではと思った事がある、現在もその様な思いに駆られる時がある。結論には至らないが、もしかしてそれは「信心」ではないかと思う節もある。では信心とは何か? この「泰斗」誌はお寺関係の方も読んでおられると聞き及んでいる。不用意に「信心」を語るのは僭越過ぎるであろう。
「書」を長年続けていると、仏教でいう「悟」なのか「無我」「無心」かと思ってしまう世界があると錯覚する事がある。しかし、それは大きな間違いである。結局のところ、未だにはっきりしないで日々、経文を書き続けている自分がいる。現世的次元から、もう一つ違った次元があるのでは無かろうかと思ったりもしている。それを敢えて「信心」と言いたいのかもしれない。
「信心」とは・・・信ずる心と解釈している。その対象が果たして仏様なのか、神様なのか、それとももっと違う次元の物なのか解らない。だからと言って無神論者とも言い切れない。どこかに「真」を信じて求めているのかもしれない。
努力すればいい世界が得られると信じられているが・・・神社仏閣に行きお賽銭を上げる事によって、神頼み、仏頼みでお願い事をするのと同じ様な気がする。私にとっては、お金を払って神仏のご加護を得るのは不思議な事と思う。勿論、お賽銭によって、安穏、平和、相手を慈しむのはよいと思う。これは矛盾するかも知れないが、それこそ神様、仏様、何かに委ねようという事。ただ、私利私欲の為のお賽銭は私には理解出来ない。お賽銭的なものの考えで努力して書いたものに、神仏のご加護があろう筈がない。
お叱りを受ける巻頭言ではあるが、百寺納経に免じて許して貰いたい。
(機関紙泰斗 令和4年4月号 巻頭言より)