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「書」を見ること、観察する事の違い
「書」を見ること、観察する事の違い
巷の書道教室や、泰書會書道教室においても、「よく手本を見なさい」という言葉が常套句のように繰り返されている。だが果たして、それは本当に正しい指導と言えるのだろうか。
近頃、私はこの「手本の見方」そのものに違和感を覚えるようになっている。「手本通りに書く」とは、一体どういうことなのか。確かに、そのように言ってしまえば話は簡単に済むのかもしれない。しかし、それで本当に良いのだろうか。
たとえば、書道界において最高峰の名筆と称される『蘭亭序』がある。その芸術性には、確かに深く頷けるものがある。また、楷書の模範として名高い『九成宮醴泉銘』は、楷書を学ぶ者にとって必ず習得すうべき手本とされている。これら二大名品は、書道の頂点に位置する存在であることに異論はない。
では、学ぶ者はどのような姿勢でこれらに向き合うべきなのか。やはり「手本通り」に学ぶべきなのか。
一方では、宴席で書かれた即興の書であり、他方は唐の太宗皇帝の勅命により書かれた荘厳な碑文である。これら二つの書には、我々凡人には計り知れない深淵な世界が広がっている。したがって、「手本通りに書く」ことは、そもそも不可能なのではないだろうか。
ここには、「ただ見る」ことと「深く観察する」ことの大きな違いが出てくる。時代背景や筆・墨・紙の性質、それぞれの用具の妙味を深く理解しなければ、その本質には決して迫ることはできない。そして何より、「書」を書いた人物の思想や生き様に思いを巡らさなければならない。王義之の人生、歐陽詢生き様を知らずして、果たしてその書を理解したと言えるのか。
ただ漫然と見るのではなく、心を込めて観察すること。そこにこそ真の学びがあると、私は強く感じている。
(機関誌 泰斗令和七年十一月号 巻頭言より)
Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124
今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。
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4月3日
「信心」と「書」
平成六年から百寺納経が続いている。現在、八十数箇寺と長い年月が経過している。さて、これだけ皆様のご加護を受けているのにも拘わらず、果たして自分には信心があるのであろうか。以前、自分の作品に物足らなさを感じた時があり、何かが不足しているのではと思った事がある、現在もその様な思いに駆られる時がある。結論には至らないが、もしかしてそれは「信心」ではないかと思う節もある。では信心とは何か? この「泰斗」誌はお寺関係の方も読んでおられると聞き及んでいる。不用意に「信心」を語るのは僭越過ぎるであろう。
「書」を長年続けていると、仏教でいう「悟」なのか「無我」「無心」かと思ってしまう世界があると錯覚する事がある。しかし、それは大きな間違いである。結局のところ、未だにはっきりしないで日々、経文を書き続けている自分がいる。現世的次元から、もう一つ違った次元があるのでは無かろうかと思ったりもしている。それを敢えて「信心」と言いたいのかもしれない。
「信心」とは・・・信ずる心と解釈している。その対象が果たして仏様なのか、神様なのか、それとももっと違う次元の物なのか解らない。だからと言って無神論者とも言い切れない。どこかに「真」を信じて求めているのかもしれない。
努力すればいい世界が得られると信じられているが・・・神社仏閣に行きお賽銭を上げる事によって、神頼み、仏頼みでお願い事をするのと同じ様な気がする。私にとっては、お金を払って神仏のご加護を得るのは不思議な事と思う。勿論、お賽銭によって、安穏、平和、相手を慈しむのはよいと思う。これは矛盾するかも知れないが、それこそ神様、仏様、何かに委ねようという事。ただ、私利私欲の為のお賽銭は私には理解出来ない。お賽銭的なものの考えで努力して書いたものに、神仏のご加護があろう筈がない。
お叱りを受ける巻頭言ではあるが、百寺納経に免じて許して貰いたい。
(機関紙泰斗 令和4年4月号 巻頭言より)
