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模倣はもっとも誠実な称賛の形
模倣はもっとも誠実な称賛の形
「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。
たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。
臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。
ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。
要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。
(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)
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4月3日
「信心」と「書」
平成六年から百寺納経が続いている。現在、八十数箇寺と長い年月が経過している。さて、これだけ皆様のご加護を受けているのにも拘わらず、果たして自分には信心があるのであろうか。以前、自分の作品に物足らなさを感じた時があり、何かが不足しているのではと思った事がある、現在もその様な思いに駆られる時がある。結論には至らないが、もしかしてそれは「信心」ではないかと思う節もある。では信心とは何か? この「泰斗」誌はお寺関係の方も読んでおられると聞き及んでいる。不用意に「信心」を語るのは僭越過ぎるであろう。
「書」を長年続けていると、仏教でいう「悟」なのか「無我」「無心」かと思ってしまう世界があると錯覚する事がある。しかし、それは大きな間違いである。結局のところ、未だにはっきりしないで日々、経文を書き続けている自分がいる。現世的次元から、もう一つ違った次元があるのでは無かろうかと思ったりもしている。それを敢えて「信心」と言いたいのかもしれない。
「信心」とは・・・信ずる心と解釈している。その対象が果たして仏様なのか、神様なのか、それとももっと違う次元の物なのか解らない。だからと言って無神論者とも言い切れない。どこかに「真」を信じて求めているのかもしれない。
努力すればいい世界が得られると信じられているが・・・神社仏閣に行きお賽銭を上げる事によって、神頼み、仏頼みでお願い事をするのと同じ様な気がする。私にとっては、お金を払って神仏のご加護を得るのは不思議な事と思う。勿論、お賽銭によって、安穏、平和、相手を慈しむのはよいと思う。これは矛盾するかも知れないが、それこそ神様、仏様、何かに委ねようという事。ただ、私利私欲の為のお賽銭は私には理解出来ない。お賽銭的なものの考えで努力して書いたものに、神仏のご加護があろう筈がない。
お叱りを受ける巻頭言ではあるが、百寺納経に免じて許して貰いたい。
(機関紙泰斗 令和4年4月号 巻頭言より)
