News

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その106

今回は~【ついに南ヨーロッパ進出】フランスで席上揮毫をして来ました!!~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その105

今回は~【扇子編】書家の色んなお仕事に密着しました。~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その104

今回は~【書道の裏側】大字の準備から書き終わりまでを見せます!!~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

「書」を見ること、観察する事の違い

「書」を見ること、観察する事の違い

巷の書道教室や、泰書會書道教室においても、「よく手本を見なさい」という言葉が常套句のように繰り返されている。だが果たして、それは本当に正しい指導と言えるのだろうか。

近頃、私はこの「手本の見方」そのものに違和感を覚えるようになっている。「手本通りに書く」とは、一体どういうことなのか。確かに、そのように言ってしまえば話は簡単に済むのかもしれない。しかし、それで本当に良いのだろうか。

たとえば、書道界において最高峰の名筆と称される『蘭亭序』がある。その芸術性には、確かに深く頷けるものがある。また、楷書の模範として名高い『九成宮醴泉銘』は、楷書を学ぶ者にとって必ず習得すうべき手本とされている。これら二大名品は、書道の頂点に位置する存在であることに異論はない。

では、学ぶ者はどのような姿勢でこれらに向き合うべきなのか。やはり「手本通り」に学ぶべきなのか。

一方では、宴席で書かれた即興の書であり、他方は唐の太宗皇帝の勅命により書かれた荘厳な碑文である。これら二つの書には、我々凡人には計り知れない深淵な世界が広がっている。したがって、「手本通りに書く」ことは、そもそも不可能なのではないだろうか。

ここには、「ただ見る」ことと「深く観察する」ことの大きな違いが出てくる。時代背景や筆・墨・紙の性質、それぞれの用具の妙味を深く理解しなければ、その本質には決して迫ることはできない。そして何より、「書」を書いた人物の思想や生き様に思いを巡らさなければならない。王義之の人生、歐陽詢生き様を知らずして、果たしてその書を理解したと言えるのか。

ただ漫然と見るのではなく、心を込めて観察すること。そこにこそ真の学びがあると、私は強く感じている。

(機関誌 泰斗令和七年十一月号 巻頭言より)

「書」を見ること、観察する事の違い

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124

今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

7月8日

江戸時代中期に儒学者であり、書家であったと言う大塩鼇渚(おおしおごうしょ)と言う先生がおられた。その著『筆道秘伝書』の一節に「一、筆をとるときは、身体を真直ぐ保ち、心を正すべし。二、漢字の形を注意深く検討し、静かな心で書くべし。三、筆は優しく取り扱うべし。四、字に肉を加えよ。五、筆のリズムに気をつけよ。六、決められた形を守って書くべし」と書かれていた。

現代でも通用する言葉である。しかし現実は違う。「書」のあり方がこうも違うのか…と思うくらい、現代の「書」は変わってしまった。文明の進歩に伴い文化の変容が大きく影響している。書は「文房四宝」に重きをおいているが、ここにも悲劇が生じている。良いものが容易に手に入らなくなった。その事は私にとってかなりな難事である。この二大要素が「書」を駄目にしたのか、というと実は違う。この二つの事は言い訳に過ぎぬ。もっと重要な事が忘れ去られている。それは冒頭に記載した『筆道秘伝書』の言である。この中の六筆道の原則を守るには相当な習練が必要となる。経験をどれだけ積むかは、最後には量的な問題になってしまう。今の世の中では限度があり、そこに妥協が生じている。難しいところである。

さて、昨今の「書」の世界には歴史背景、技法をあたかも大袈裟な言い回し、もったいぶった言い方で論じている輩が大勢いる。「何とも言えぬ線質。何とも言えぬ間合い。」これは滑稽である。「何とも言えぬ書」は所詮「何とも言えぬ」書なのである。定義が難しい「わび・さび」という評も同じである。「書」に「わび・さび」は必要ない。この六筆道を守ればいいのである。

7月1日

七十二箇寺目となる今回の奉納も本妙院関係各位、教室会員の出席で
式が執り行われたこと、心より感謝申し上げます。