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模倣はもっとも誠実な称賛の形
模倣はもっとも誠実な称賛の形
「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。
たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。
臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。
ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。
要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。
(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)
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12月3日
書人の立場の納得とは
前号の「満腹・・・満足」が自分の中で尾を引いている。自分で書きながら、俗に言うトラウマである。
最近、来月号の半折課題の手本を書き始めた。いつもの様に草書から書くのが習慣となっている。ところが、何枚書いても納得がいかなくなってしまった。明らかに「満腹・・・満足」が意識の中に入ってしまった。果たして「納得」とはどの時点なのであろうか。おそらく、世の中の人々が全員、その様な場面に出くわしているのではなかろうか。
自分は、たかが書人・・・。誰が見たって、これが上手いか、下手か、何だか解らない、と曖昧模糊とした感想になってしまう。以前にも述べたのだが「何とも言えない作品」と言うフレーズがあるが、これは上手いのではなく、文字通り何とも言えないのである。結論は上手くないである。世の中に「わび、さび、かれ」と言う言葉がある。これも言葉尻を把えて「わび」はただわびしいのか・・・。「さび」はたださびてしまったのか・・・。「かれ」は枯れてしまったのか・・・となる。これは「わび、さび、かれ」を称えている人には冒瀆である。それだけ言葉選び、言葉遣いが難しい。
「書」の理想とは、生命力があり(かれてはいけない)、人々に感動を与えられ、誰にも理解し易いものではないかと思っている。昔は、「書」が解らない者は解らなくてよい。解りたければ勉強すればいいのであると言った方が大勢いた。又、他の「書」は「書」ではないと、過激な発言も多くあった。今はそこまでは無いが、我が習っている「書」が最高と思われている方も大勢いる。それも危険な考えである。
話を元に戻すが、とにかく納得のいく草書が書きたい・・・。こんな歳で三十枚も四十枚も書いても仕方がないとの矛盾だらけ。
「たかが手本、されど手本。どうしたものか…」。締切が間近である。結局のところ妥協の産物となってしまう。これから果たして何度、納得した作品が書けるのであろうか、恐れおののいている自分がいる。前号と同じ内容ではあるが、どなたかお察し願いたい。
「七十にして矩を踰えず」どころではない。迷いの七十の道である。(泰書會 機関紙泰斗 12月号巻頭言より)
