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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その51

今回は~今まで柳田泰山のYouTubeを見て頂きありがとうございました!!~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その50

今回は~【メンタルと書道】72歳の柳田泰山がメンタルにハマる理由~です。

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数字の重さ

数字の重さ

今年の泰書展は記念すべき節目の三十回展である。これは、偏に会員諸氏の弛まぬ努力とご尽力の賜である。そして、それを支えて頂いている関係各位の温かいご支援のお陰でもある。最近では、泰書展準備の事を考えながらの日々であるが、走馬灯の如く、泰書會・泰書展の過去の出来事を思い出してしまう。泰書展図録を振り返りながら、「あの時、この様にすれば、こんな結果にならなかったか・・・もっと違う指導があったのではなかろうか・・・」と思うが、結局のところこのままで、自身の力を出し切るしかないと言う結論にはなる・・・。

同時に百時納経も三十年近い道程である。李白の蜀道難の詩「噫吁戲(ああ)危いかな高い哉。蜀道の難しきは青天に上るよりも難し」である。現在九十五箇寺であるから、これも成就する事が見えてきた。それに合わせ、中国との文化交流が動き出した事も百寺納経に拍車がかかった。

三十周年、百寺納経、そして中国文化交流(先々代・泰麓先生から数えて九十四年続いている)はあと数年で百年となる。

書道団体としては日が浅いが、家系として二百年、百寺納経として三十数年、柳田家日中文化交流として九十四年。重みのある数字である。

「書」の歴史は、古代中国にさかのぼり、紀元前三千年頃から中国で文字が使われ始め、文字の発展とともに書道も発展してきた。それから比較すれば、我々のしていることは浅いのかも知れぬ。

なる程、最近どこか重荷を感じ、思い悩まされている部分があった。この数字が原因なのかも知れない。ただ、これは現実であるから、確りと受けとめて邁進しなければならない。

(機関誌 泰斗令和六年四月号 巻頭言より)

数字の重さ

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その49

今回は~第二十八回泰書展を終えて。~です。

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福岡 柳田泰山書展「神の道」開催のお知らせ

この度、縁あって、福岡で書展を開催する運びとなりました。

今年、上野の森美術館で第二十八回泰書展を開催致しました折、特別展として「アート展」と称し、今までとは違った観点の小展覧会を開催致しました。

書道の概念は文房四寳(墨・筆・紙・硯)から成り立っているものが筋でもあります。然し、近代において文房四寳を使用しながらもモダンアートにと言う表現で「書」の領域が広がりました。賛否両論はありますが、芸術の域としては決して否定も出来ないと私は思っております。ただ、本筋の「書」そのものの鍛錬を怠ってはいけない事も事実であります。

「書」の一点一画は、部分として見ますと美しい線が画かれているのもあります。最たるものは、日本の書芸術として仮名世界がそうではないかと思います。以前、その仮名の線の一部を切り取り拡大をしたところ、一本数ミリの中に活き活きとした線を発見することも出来ました。

現在、楷書を中心とした試行錯誤が顕著になっており、今後の「書」に如何に対峙していくかの模索の心境になっております。今回の様な一つのきっかけで、小さき世界の発見があり、そこから原点回帰に繋がる事を意識しつつもあります。今回の書展は自分に対しての新たなる挑戦の一歩、それが、どの様に「楷書」の道に繋がるかの期待感もあります。

初めての九州での書展、どうか九州・福岡に在住のお知り合いがございましたならば、お知らせして頂き、ご高覧頂ければ幸いです。

私自身、十一月三日(木・祝)・四日(金)の午前十一時より午後五時まで会場におります。お声をかけて頂ければ幸いです。

12月17日

今回は~「見るだけ書道レッスン」書道ではどうして右から書くのか?その理由について~です。

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12月3日

書人の立場の納得とは

前号の「満腹・・・満足」が自分の中で尾を引いている。自分で書きながら、俗に言うトラウマである。

最近、来月号の半折課題の手本を書き始めた。いつもの様に草書から書くのが習慣となっている。ところが、何枚書いても納得がいかなくなってしまった。明らかに「満腹・・・満足」が意識の中に入ってしまった。果たして「納得」とはどの時点なのであろうか。おそらく、世の中の人々が全員、その様な場面に出くわしているのではなかろうか。

自分は、たかが書人・・・。誰が見たって、これが上手いか、下手か、何だか解らない、と曖昧模糊とした感想になってしまう。以前にも述べたのだが「何とも言えない作品」と言うフレーズがあるが、これは上手いのではなく、文字通り何とも言えないのである。結論は上手くないである。世の中に「わび、さび、かれ」と言う言葉がある。これも言葉尻を把えて「わび」はただわびしいのか・・・。「さび」はたださびてしまったのか・・・。「かれ」は枯れてしまったのか・・・となる。これは「わび、さび、かれ」を称えている人には冒瀆である。それだけ言葉選び、言葉遣いが難しい。

「書」の理想とは、生命力があり(かれてはいけない)、人々に感動を与えられ、誰にも理解し易いものではないかと思っている。昔は、「書」が解らない者は解らなくてよい。解りたければ勉強すればいいのであると言った方が大勢いた。又、他の「書」は「書」ではないと、過激な発言も多くあった。今はそこまでは無いが、我が習っている「書」が最高と思われている方も大勢いる。それも危険な考えである。

話を元に戻すが、とにかく納得のいく草書が書きたい・・・。こんな歳で三十枚も四十枚も書いても仕方がないとの矛盾だらけ。
「たかが手本、されど手本。どうしたものか…」。締切が間近である。結局のところ妥協の産物となってしまう。これから果たして何度、納得した作品が書けるのであろうか、恐れおののいている自分がいる。前号と同じ内容ではあるが、どなたかお察し願いたい。

「七十にして矩を踰えず」どころではない。迷いの七十の道である。(泰書會 機関紙泰斗 12月号巻頭言より)