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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その115
今回は~【四大家を書く】九成宮醴泉銘の臨書に挑戦します。~です。
よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。
ご挨拶
ご挨拶
新年あけましておめでとうございます。
旧年中は皆様より温かいご支援とお力添えを賜り、お陰さまで百寺納経の節目を迎えることができました。改めて心より御礼申し上げます。
本年は丙午の年にあたります。できれば駿馬のごとく颯爽と進みたいところではございますが、今の私は、むしろ「馬翁(ばおう)」のように落ち着いた歩みを大切にし、年齢相応に静かな時間の中で「書」と向き合ってまいりたいと考えております。
一般に「書」は七十代が円熟期とも語られます。しかしながら、私にとってその境地はまだ遠く、今なお自信の揺らぎが胸をよぎることもございます。何を求め、どこへ向かおうとしているのか、自問自答を続ける日々です。ただ、人の心は単純に「ポジティブ」「ネガティブ」と分類できるものではなく、その両面を抱えながら歩むことこそ、人間らしさの証であると感じております。歳を重ねても心が揺れる・・・。それは決して私だけでなく、きっと皆様お一人おひとりにも通じるものがあるのではないでしょうか。
泰書會の「書」にご縁のある皆様には、単なる「お習字」にとどまらず、書道という深い世界を、ご自身の感性を通して味わっていただければと願っております。また、泰書會を温かく応援してくださる多くの皆様におかれましても、今後とも変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。
日本と中国、それぞれの「書」の文化が、まるで虹の端のように結び合い(先日、唐招提寺での奉納儀の帰りの道中でその虹がくっきりと浮かんだのは、佳き思い出の一コマとなりました)、豊かに響き合う未来を共に見届けていただけましたら幸いです。
(機関誌 泰斗令和八年一月号 巻頭言より)
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6月25日
「書」を志す者へ
昔、「名人」と「達人」の違いについて友人と語った事がある。これは、どちらとも言いがたく、何の結論に達する事もなく、結果、無責任ではあるがどちらでも良いとい笑い話になってしまった記憶がある。(実は達人が上であると・・・?)改めてそこを捻くり返して語ってみたい。
例えば武士の場合、自分が死なずに人を殺す事が出来、生涯を通す事の出来たのが「名人」。人を殺さず剣の修業のある域に達したのが「達人」と言う・・・かもしれない。また、弓の名人がいて、達人を求めて山奥に行き、出会ったら、その「達人」の老人が、その名人に「不射之射」という境地を見つけたという中国の逸話がある。そこから得られた話として、長年の間何かに打ち込んでいくと、常人では想像もできない世界に到達することがあるのだろう。また、西部劇では有名なワイアット・アープは弾を一度も体に受けていないという話も聞いた。これらはすべてフィクションであろう。然し、どこか頷けるものがある。
では「書」には「達人」「名人」がいるのであろうか・・・。それは解らない。余程修業をつむ事によってその域を垣間見る事ができようか。先人の中には居たであろう。勿論、私には論外、無理である。それでも何かを求め続けなくてはいけない。これが「迷人」の行きつくところかも知れぬ。
この号が会員諸氏の手元に届く頃には、泰書展の作品制作も佳境に入っているであろう。どうか、気後れ、気負いを取り払い、今の自分を曝け出して貰いたい。「名人」、「達人」にならなくてもよい。ただ、あるがままの自分が表現出来たならば、それがその方の極致の世界となる。
(機関誌 泰斗令和五年六月号 巻頭言より)
