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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その60
今回は~【行書のバイブル】幻の蘭亭序について語ります。~です。
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今回は~【先生がやりたかったこと】短鋒と長鋒で楷書を書いてみた。~です。
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今回は~【書の奥深さを知る動画】「龍」を五書体で書いてみた~です。
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我に七十難八十苦を与えたまえ
我に七十難八十苦を与えたまえ
愚かな話である。いい歳をして何をか言わんや・・・。
人、各々の生き方がある。これは、年寄りの戯言とご容赦願いたい。最近、会員や巷からも「終活」を聞く。私にとっては、とんでもない「死ぬまで書き続けていく・・・」。終わりの準備をする余裕なんて考えられない。それも冒頭に申し上げた、人、各々である・・・。失礼な言葉だがお許し願いたい。
「終活」するならば、自分の為に努力し、それを残していけばよい。それをどう活かすかは後の者に託す。恩着せがましく、「誰それの為に」はおかしいと思う。命有る限り、自分を大切にして貰いたい。「終活」ではなく、生きていく為の「生活」になるべき。「終活」のエネルギーがあるならば、それを「生活」に変えた方がよい。その為には、先ず自分を大切にしなければいけない。そうでなければ、相手も幸せにならない。自分を犠牲にして、相手が幸せになる事はない・・・これも言い過ぎであろう。
私自身は求めている「書」がある。然し、最近は「書」の方が私に要求してくる。「お前はこれが書けるのか・・・書けるものなら書いてみろ・・・」。それも挑発的に聞こえてくる。頭の中がごちゃごちゃになる。
世間からは、悠長な事言って、ノウテンキと言われそう。でも私は必死である。何故ならば、「書」を残さなければいけない。それも、後の人々に理解してもらう「書」をである。「書生活」していかなければならない。子供の頃に「我に七難八苦をあたえたまえ」と言われた。未だにそれが忘れられない。それは七歳くらいの時。今は✕十である・・・。
(機関誌 泰斗令和六年九月号 巻頭言より)
Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その57
今回は~【字が上手くなる!!】柳田流のこだわりの「書」について解説します。~です。
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11月18日
葉隠
「葉隠」(はがくれ)とは、江戸中期の武士の修養書である。「葉蔭」とも言われ、葉の蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説もあるが、諸説あろう。私自身は、この言葉が好きである。「書」は武士道精神も拘わっているのではと思う。初代・柳田正斎は千葉周作を友としていた事を先代・泰雲から聞かされた。千葉周作は北辰一刀流の流祖である。その剣の名人と正斎がどんな関係かは定かでないが、どこかロマンを感じる。
我々が学ぶ基本運筆に「剣垂」と呼んでいる言葉がある。剣の如く真っ直ぐ下に引いて書くのである。また、これは私の持論であるが左払いは、日本刀の如くイメージして書く事も教えている。昔、友人から由緒ある木刀を頂いた。数年前までは、その木刀を机の脇にちらつかせていた時期があった。それは「剣の如く」の「書」を欲していたから・・・。
さて、話はそれてしまったが、この武士道は日本人にとって大切な言葉ではなかろうか。「佛教・儒教・道教」に合わせ武士道も不可欠なものである。その気持ちを持って「書」に打ち込むのが、私の「書」の理想である。そして、葉隠れの如く、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」と言っては大袈裟ではあるが、一本一本の線には魂が欲しい。
この話、少なくとも私の脳裏には確り定着している。ただ、まだまだその域には到達していないのも事実である。一度くらい、「死に物狂い・・・」「死ぬほど・・・」楷書に打ち込まなくてはならない。確かに若い時、何万字も書いた時があったが、その時には、師である泰雲がいて「量を書けば良いというものではない」と一笑に付された事があった。それが数年前に「なるほど・・・」と合点がいった。
遅かりしかもしれぬが、この「葉隠」を読み、ふと自分の処し方に想いが走った。
(機関誌 泰斗令和四年十一月号 巻頭言より)