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ジグソーパズル
ジグソーパズル
最近、細字を書いているとジグソーパズルを思い出す。一字一字のピースを重ねて行く内に一つの作品が仕上がる。然し、いつも途中でそのピースが見つからず失敗に至る。一体、何をしているのか・・・。
今年の泰書展では三千ピースを二点仕上げた。それも間違いがなく(不出来は別として)纏め上げる事が出来た。
ところが、般若心経や大悲呪などの経文では時々、ピースを無くしてしまう。二百字や四百字のピースなのに、すぐに一つのピースが失われてしまう・・・。まるで自分の人生みたいなもの。
人生は希望があったり、失望があったり、ジグソーパズルとしては永久に仕上がらないもの。今の状態、年齢からくる体力が失われているのか。それはただの言い訳に過ぎない。毎日、コツコツ仕上げているのに、途中で何かを無くしてしまう。放棄してしまえばいいのにと考えられるが、それは人生そのものを放棄するのに等しい。困ったもんだ・・・。もう晩年なのに、うかうかしていられない。その焦りがあるのか。それも違う。やはり力不足であろう。この繰り返しである。
この瞬間、経文の文字を間違えてしまい、気を取り直し、この稿を書き始めた。毎度の事ながら、一つのパズルを作るのに試練としか言いようがない。たかが「書」である。その間違いは誰にも解らないかも知れない。特に何千字のピースは解らない。でも自分が許しがたい。こんなにチャランポランな自分が、そこは恐れおののいている。
天の声がいう。「誰も解りはしない。適当に書いたら・・・一層の事、辞めたらどうだ・・・」それは悪魔の囁きであろう。そして善の天使は何も言わない。
(機関誌 泰斗令和六年十一月号 巻頭言より)
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11月18日
葉隠
「葉隠」(はがくれ)とは、江戸中期の武士の修養書である。「葉蔭」とも言われ、葉の蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説もあるが、諸説あろう。私自身は、この言葉が好きである。「書」は武士道精神も拘わっているのではと思う。初代・柳田正斎は千葉周作を友としていた事を先代・泰雲から聞かされた。千葉周作は北辰一刀流の流祖である。その剣の名人と正斎がどんな関係かは定かでないが、どこかロマンを感じる。
我々が学ぶ基本運筆に「剣垂」と呼んでいる言葉がある。剣の如く真っ直ぐ下に引いて書くのである。また、これは私の持論であるが左払いは、日本刀の如くイメージして書く事も教えている。昔、友人から由緒ある木刀を頂いた。数年前までは、その木刀を机の脇にちらつかせていた時期があった。それは「剣の如く」の「書」を欲していたから・・・。
さて、話はそれてしまったが、この武士道は日本人にとって大切な言葉ではなかろうか。「佛教・儒教・道教」に合わせ武士道も不可欠なものである。その気持ちを持って「書」に打ち込むのが、私の「書」の理想である。そして、葉隠れの如く、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」と言っては大袈裟ではあるが、一本一本の線には魂が欲しい。
この話、少なくとも私の脳裏には確り定着している。ただ、まだまだその域には到達していないのも事実である。一度くらい、「死に物狂い・・・」「死ぬほど・・・」楷書に打ち込まなくてはならない。確かに若い時、何万字も書いた時があったが、その時には、師である泰雲がいて「量を書けば良いというものではない」と一笑に付された事があった。それが数年前に「なるほど・・・」と合点がいった。
遅かりしかもしれぬが、この「葉隠」を読み、ふと自分の処し方に想いが走った。
(機関誌 泰斗令和四年十一月号 巻頭言より)