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ジグソーパズル
ジグソーパズル
最近、細字を書いているとジグソーパズルを思い出す。一字一字のピースを重ねて行く内に一つの作品が仕上がる。然し、いつも途中でそのピースが見つからず失敗に至る。一体、何をしているのか・・・。
今年の泰書展では三千ピースを二点仕上げた。それも間違いがなく(不出来は別として)纏め上げる事が出来た。
ところが、般若心経や大悲呪などの経文では時々、ピースを無くしてしまう。二百字や四百字のピースなのに、すぐに一つのピースが失われてしまう・・・。まるで自分の人生みたいなもの。
人生は希望があったり、失望があったり、ジグソーパズルとしては永久に仕上がらないもの。今の状態、年齢からくる体力が失われているのか。それはただの言い訳に過ぎない。毎日、コツコツ仕上げているのに、途中で何かを無くしてしまう。放棄してしまえばいいのにと考えられるが、それは人生そのものを放棄するのに等しい。困ったもんだ・・・。もう晩年なのに、うかうかしていられない。その焦りがあるのか。それも違う。やはり力不足であろう。この繰り返しである。
この瞬間、経文の文字を間違えてしまい、気を取り直し、この稿を書き始めた。毎度の事ながら、一つのパズルを作るのに試練としか言いようがない。たかが「書」である。その間違いは誰にも解らないかも知れない。特に何千字のピースは解らない。でも自分が許しがたい。こんなにチャランポランな自分が、そこは恐れおののいている。
天の声がいう。「誰も解りはしない。適当に書いたら・・・一層の事、辞めたらどうだ・・・」それは悪魔の囁きであろう。そして善の天使は何も言わない。
(機関誌 泰斗令和六年十一月号 巻頭言より)
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8月7日
「書」の伝統
私自身が何故、この様に必死になり、「書」・「楷書」を追い求めているのか・・・。
「書」は文字を紙面に具体的に表現する事によって生まれる。ただ中国・秦代に文字が制定された時には、公文書としてだったから、精神・芸術にはほど遠かったのではなかろうか。近代では「書」を美しい芸術として認められる時代となった。
素材としての文字はあり余るほど存在している。技術も長い年月の間に蓄積されて来た。しかし氾濫する事にもなった。そこで必要となってきたのが伝統ではなかろうか。歴史の伝統、技術の伝統、精神の伝統から、現代の「書」も守られている。平成から令和になってからはモダン書が現実となってきた。ただそれも昭和の初期位から先人が基礎を成してきたものである。今生まれたのではない。そこにも伝統というものがある。
よって「書」に新生はない。模倣の伝統である。然し、不思議なことに現在も更に追及されているのである。誠に不可解なものかもしれない。そして私自身も追求し続けている。その根底には、柳田家の伝統と先人が築き上げた伝統を守っていかなければいけないという、妙な義務感がある。
「書」に答え、結論はない。要は無機質に淡々と筆を運ぶのもよい。但し、感性、精神性、宗教性の要素は必要であろう。それらは伝統として継承されているからである。これから「書」を学ぶ者は、是非それを前提として書き出して貰いたい。時代に翻弄される事なく、伝統である「書」を追求して貰いたい。決して新しいものを求めず、古き良き「書」を追求してこそ、新しき「書」世界が生まれてくると信じて貰いたい。
それが二千年以上も続いている伝統的な「書」なのである。
(機関誌 泰斗令和四年八月号 巻頭言より)