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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その126

今回は~【正しい楷書はどれだ!?】柳田流の楷書のこだわりについて解説します。~です。

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模倣はもっとも誠実な称賛の形

模倣はもっとも誠実な称賛の形

「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。

たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。

臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。

ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。

要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。

(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)

模倣はもっとも誠実な称賛の形

2月15日

今回は~大字の迫力がやばい・・・泰山先生が漢字で達磨を書く~です。

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2月1日

今回は~「国破れて山河在り」書家が半折で40文字を書き上げます~です。

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2月1日

「ある書展を観て」

最近、ある書展を観た。その会場に入った瞬間、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館を思い出した。勿論、グッゲンハイムの方が遙かに優れている。当時( 今から四十年程前)、祭日のような日にも拘わらず、そのグッゲンハイムに入った瞬間、美の静寂を感じた。それはどこかの美術館の様に、輻輳、混雑を極めた、およそ鑑賞の域に足らずとは大違いであった印象である。いずれにせよ、美術鑑賞は静かに観たいものである。

中国の美術館も意外と静かに見る事が出来る。然し、世界的な傾向として、ネットでの入場券購入が至極当然の様になってしまった。美術鑑賞は贅沢を言えば、行きたい時に行って、気が向いたら観られるのが良く、それが心の癒しともなる。ある高僧が、仏像は寺で観るのが一番と述べていた。私自身も以前、高名な日本画家の仏頭だけの画を拝見した時、正直、気分を悪くしてしまい、早々に退出した思い出があった。

冒頭に述べたその書展は、私の想像を遙かに超えた陳列配置であった。一点一点の作品の間合いが素晴らしかった。作品と作品の空間が空きすぎと思ったが、次の作品に移動する際、広すぎた間合いが逆に心を変えられる瞬間、前のを引きずらず鑑賞が出来た。これは羨ましい陳列である。普通は、これ見よがしに作品を並べ立て具満タン的陳列、そして来客が多すぎて、背中から押されそうになる雰囲気には辟易である。美しいものを観る時は、やはり間合いが絶対的条件である事を悟った。

空間間合いと、作品自体の紙面に対する間合いが一致して初めて、よい展覧会となるかもしれない。確か、MOA美術館もそうであった気がする。

結論を述べると、本当の美術鑑賞は都会ではなく、地方の美術館や静かな神社仏閣に行って鑑賞するのがよい。

(機関紙泰斗 令和4年2月号 巻頭言より)