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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その23

今回は~泰斗10月号 緊張感のある楷書のお手本を書きます~です。

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生涯の書

「生涯の書」

「書」は一本の筆から始まる。そこに「硯紙墨」が帯同し「書」が息づいてくる。それに携わるのが書人である。果たして書人が醸し出した精神が美しい「書」となるのであろうか。そこは定かではない。「書」は無限の美が秘められていると言われているがそれも解らない。では何故、「書」を書くのであろう。これは自身の思いで成り立っている話である。

「書」は墨線と白という無限の空間から成り立っている。それを突き詰めている自分がそこにいる。なんの根拠もなく、ただ突き進むのである。然し、自分の脳裏にはぼやけた「書」の境地が窺える。黒と白で組み立てられ構成された文字が見え隠れしている。極地と言いたいが、そこまで到達もされていない。これには終わりがない。日頃から、「書」について悩み、先月号で述べた「信心」に疑心を抱きながらの瞑想もしている。その世界が心地よい事も解りつつ紙に対峙している。

そもそも、芸術は主観と客観から成り立っている、時には敵になり、味方になると言う繰り返しで生まれている。不思議な世界である。それは善悪と似ているかもしれない。善悪とは何であろう。人を貶める様な悪でも無く、礼讃する如くの善でもない。その善悪が無機質に限りなく広がる世界が芸術なのかも知れない。そして何かを信じて生きているのが芸術家でもある。ただ自分は芸術家とは思っていない。これは真の仏教家か、ただの仏教に携わる者の違いと同じである。きっと自分は後者であろう。今、その状態を抜け出したいのが本音である。

結局のところ、「これだ…」を得られずに人生を終わるであろう。ただ好き好んでこの世界にいる自分が鮮明に見えているの
が可笑しい。

(機関紙泰斗 令和4年5月号 巻頭言より)

生涯の書

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その22

今回は~Tシャツに書いてみた~です。

Tシャツに文字を書いたらすごい渋い作品が出来上がりました。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その21

今回は~泰山先生書道人生初!左手で書道を書いてみた~です。

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2月15日

今回は~大字の迫力がやばい・・・泰山先生が漢字で達磨を書く~です。

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2月1日

今回は~「国破れて山河在り」書家が半折で40文字を書き上げます~です。

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2月1日

「ある書展を観て」

最近、ある書展を観た。その会場に入った瞬間、ニューヨーク・グッゲンハイム美術館を思い出した。勿論、グッゲンハイムの方が遙かに優れている。当時( 今から四十年程前)、祭日のような日にも拘わらず、そのグッゲンハイムに入った瞬間、美の静寂を感じた。それはどこかの美術館の様に、輻輳、混雑を極めた、およそ鑑賞の域に足らずとは大違いであった印象である。いずれにせよ、美術鑑賞は静かに観たいものである。

中国の美術館も意外と静かに見る事が出来る。然し、世界的な傾向として、ネットでの入場券購入が至極当然の様になってしまった。美術鑑賞は贅沢を言えば、行きたい時に行って、気が向いたら観られるのが良く、それが心の癒しともなる。ある高僧が、仏像は寺で観るのが一番と述べていた。私自身も以前、高名な日本画家の仏頭だけの画を拝見した時、正直、気分を悪くしてしまい、早々に退出した思い出があった。

冒頭に述べたその書展は、私の想像を遙かに超えた陳列配置であった。一点一点の作品の間合いが素晴らしかった。作品と作品の空間が空きすぎと思ったが、次の作品に移動する際、広すぎた間合いが逆に心を変えられる瞬間、前のを引きずらず鑑賞が出来た。これは羨ましい陳列である。普通は、これ見よがしに作品を並べ立て具満タン的陳列、そして来客が多すぎて、背中から押されそうになる雰囲気には辟易である。美しいものを観る時は、やはり間合いが絶対的条件である事を悟った。

空間間合いと、作品自体の紙面に対する間合いが一致して初めて、よい展覧会となるかもしれない。確か、MOA美術館もそうであった気がする。

結論を述べると、本当の美術鑑賞は都会ではなく、地方の美術館や静かな神社仏閣に行って鑑賞するのがよい。

(機関紙泰斗 令和4年2月号 巻頭言より)