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模倣はもっとも誠実な称賛の形
模倣はもっとも誠実な称賛の形
「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。
たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。
臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。
ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。
要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。
(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)
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5月20日
「書」とは一体何であろうか。
実のところ私自身も迷うところがある。まずは書く事が好き。それに伴う知識が豊かになれば尚のことよい。では、「書」の知識は人生に於いて役に立つのか。余り役には立たないであろう。ただ、書家として継承しなければいけないという思いが強いから「書」への傾倒は必然的になる。また、生意気にも「先代が築き上げたものを偉そうに私が継承するなんて烏滸がましい限りである…」と思いつつ今日まできている。
世の中、政治・経済・文化の三つが成り立たなければ国家でないと嘯いていた時もあった。その文化の担い手として豪語している部分が見え隠れする。然し、気が付けば、それすら関係ないことである。ただ、只管信じた道を歩むだけである。それが書家であろうが、愛好家であろうが、凡人であろうが、その道を歩まなくてはいけない。やはり「偉そうな戯言はひかえるべきである」と反省もする。
人の為、世の為、自分の為、柳田家の為。どれでも構わない。その「為と言う言葉すら、あやふやなものはない。人は、日々慌ただしく過ごしている。それ相応に生きている方も大勢おられる。そこから学ぶ事も多くある。その方々に尋ねたい。人生って…。
ただ、神様、佛様が実在していれば、大いに感謝すべきであろう。でも見たこともない神佛に対し何を感謝すべきか。一つ言えることは、今日まで生きて来られたのは何かの力であろう。その何かに感謝するべきかもしれない。
「書」の魔力に魅入られた書人の戯れ事である。
