News

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その90

今回は~【三千字の大作】10日間、中国の屯蒙学舎(伝統文化書院)で三千字の大作を書いてきました!!~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その89

今回は~【書やプライベートの話】今日は書かない書人になります。~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その88

今回は~【書道の教育】現代の書道をどう子供に教えて伝えていくかという話をします。~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その87

今回は~【日本の究極美】久しぶりに仮名を色々と書いてみた~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その86

今回は~「書」に魂を吹きこむ男。~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その85

今回は~【★わかりやすく解説★】 半折課題を説明しながら楷書の基礎を教えます!!~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

「書」は時間を巻き戻さねばならない芸術

「書」は時間を巻き戻さねばならない芸術

いま私は、唐招提寺、石山寺、そして中国の寺院の経文などを日々書き続けている。とはいえ、まる一日を「書」のために費やせるわけではない。本来ならば、自分の「書」にもっと集中すべきなのだが、現実はそうもいかない。

さて、「書は時間を巻き戻さねばならない芸術」、ずいぶん大袈裟な題であるが、今朝、まさにその言葉を思い知る出来事があった。それは、一枚が約九百字からなる二枚の作品。その二枚目の七百字あたりで誤字をしてしまったのだ。一瞬、頭の中が真っ白になった。「これが現実か・・・」と思わず、諦めかけた。しかし、ここが勝負の分かれ道。失った時間-およそ三日分-を取り戻さねばならない。どこかで時を巻き戻したく、再び筆を取る決心をした。

長文の「書」において、字形の乱れはやむを得ないとしても、誤字は決して許されない。脱字については、泰書會の会員が泰書展に出品する作品であれば何百字という長文の中で一文字二文字が抜ける程度は致し方ない。だが、経文となれば話は別だ。誤字も脱字も、絶対にあってはならない。何千字にも及ぶ経文であっても、当然それは許されない。

三尺・六尺の和紙に千字以上を収める。そこに問われるのは、いかに誤字を避けるかであり、いかに「上手く」書くかではない。上手さは、経験と失敗の積み重ねの中から生まれるもの。今回の「頭の中が真っ白になる・・・」ような体験も、また貴重な糧となるだろう。

小楷(小さな文字の楷書)の難しさがここにある。これは私一人の苦しみではない。今、泰書展に向けて長文に取り組んでいる会員諸氏もまた、同じ想いを抱いているに違いない。同じ「書」に向き合い、同じ悩みを抱えながら、筆を進めているのだ。

さぁ~今夜は、三日分の時間を取り戻すための製作に励もう。

(機関誌 泰斗令和七年六月号 巻頭言より)

「書」は時間を巻き戻さねばならない芸術

7月20日

「自信と過信は紙一重である」とは泰雲先生が昔から述べられていたことです。そして私自身もこの言葉を自戒として今日まで来ました。「自信と過信」皆さんはどう思われるでしょうか。

ここでは書に対して考えてみましょう。自己分析してみますと、やはり過信しているところがあるようです。でもこれは自信なのかもしれません。ここまでこられた自信が一歩間違えると過信・自惚れになってしまいそうです。書道とはそんなものかもしれません。昨今の書展を見ますと、どうしても自惚れ書が徘徊しているのではないかと思います。と言うことは自身の作品もそう思われているかもしれません。然し、書道は個性の産物、だから自惚れなくしてはここまでやってこられなかったかもしれません。そこで心配なのが、個性イコール自信に繋がり、精神のどこからか必ず過信が生まれてくるのです。そんなことを考えて書に臨めば弱々しい書になってしまいます。弱い書であったら書く必要はありません。「自信をもって書きなさい」と考えましょう。自信と過信の押し問答になってしまいました。

「自信と過信」は恐いものです。よく書道展会場での談話に、会員同士で「この書は云々・・・」が聞かれますが、果たして自信をもって語っているでしょうか。もしこれを自信をもって語っていれば寧ろ恐いものがあります。そしてその会話中には自身の作品は褒めてもらいたいかもしれません。誰しもが思い浮かべることかもしれません。そして、そこから自信・自惚れが生まれてくる場合があります。

「自信と過信」これは書道だけでなくすべてのものに言えることでしょう。今、オリンピック真っ最中にこの稿を進めています。選手の眼には自身に満ち溢れていると時々聞かれますが、とんでもないことです。不安と恐怖心で一杯の目つきです。それを払い退けようとして、精神を高ぶらせているからあの様な目つきになるのではないでしょうか。書道も然りです。以前、述べたことがありますが、書けば書くほど、恐くもなり身震いもすることがあります。きっと「自信と過信」の葛藤があるのではないでしょうか。
(泰斗 平成十二年十一月号より)

7月1日

我が泰書會にとって創立以来の最大なる難儀が押し寄せてきた。世界中が大混乱である。自分だけが困っているのではない。世界中が困っている。その中で人々がどんな思いで一日一日を過ごしているのか。私自身には想像出来ない苦労がそこにはあるであろう。そして、新聞・テレビ・インターネットでは多くの事が報じられている。その総てが正論ではないが人々はそれらに振り回されている。

この様な最中、私自身はふと「静かなる世界」という事を考えてみた。「静かなる世界」とはどんな世界なのであろうか。
生まれてこの方、果たして「静かなる世界」に居たであろうか。私は居なかった、多分・・・。「百寺納経」で諸寺とご縁を頂いている。その寺院にすら時には、ざわつきを感じてしまう。それは観光という致し方ない状況がエスカレートしてしまっているからか。「静かなる世界」なんぞ中々得られない。また、自然遺産というものが現れた。特に人間が自然を破壊するから自然遺産として守ろうとする。なんだか矛盾している。自然遺産で、そこの場所にどれだけの人が押し寄せているか。結果これは自然破壊に繋がっている。そこでも「静かなる世界」が破壊されている。同じ様に「秘境」という言葉さえも陳腐に聞こえてくる。

ただ、これらの根幹は「心」の問題であろう。「心」が静かでなければ到底「静かなる世界」は得られないであろう。話が少しずれるが人間の闘争心を考えて見る。自分に耐え、一つの目標に向かって行くことは大切である。きっとその様な方々は、その闘争心の中に「静かなる世界」を求めているのであろう。現に私自身はその「静かなる世界」を僅かではあるが時々感じる。

これは自分の事である。もっと「心」と「静かなる世界」を繋げなくてはいけないと思った。それが「人の痛みを知る」
事にも繫がる。「静かなる世界」、「心」、「人の痛みを知る」があれば、どれだけ世界が救われるか。