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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その123

今回は~【難航してます。】六千字の作品制作の様子をお届けします。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その122

今回は~【千字文、再び】2週間をかけて千字文を書き上げる。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その121

今回は~【納得するまで書く】中国の個展で使う大字を書きます。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その120

今回は~【癒され動画】3歳の子が書道デビュー!?泰山先生と70歳差の夢の初コラボ!!~です。

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是非に及ばず

是非に及ばず

いい言葉だと思った。これを「書」の上での例えとして、私の思いを述べてみる。ただ見当違いな場合もあるが、そこは許して貰いたい。

最近の出来事に、経文の失敗が続いてしまった時期があった。珍しいことである。普段なら、せいぜい一枚か二枚、四、五百字ほど書いたところで、文字の書き違いが生じる程度である。それも、筆が馴れて軽率な心で間違える。ところが今回は、四枚続けざまの失敗であった。さすがに自分の愚かさが、身に滲みて感じられた。

これを修行というならば、この歳では無意味にさえ思える。若いうちの修行はいくら積んでも将来があるが、晩年ともなれば、かえって厄介なものとなる。一瞬にして、これまで積み重ねてきたものが、すべて気泡のように消えてしまう感覚に陥る。それでも、歩みを止めるわけにはいかず、なお経文を書き続けなければならない。

折しも、新聞のコラムに織田信長の「是非に及ばず」の言葉が紹介されていた。ふと、我に返った気がした。「善悪を論じる余地もなく、避けられない状況をそのまま受け入れること」との解説である。

とはいえ、現実には、改めて筆を取ることが怖くなった。また失敗するのではないか、その不安が先に立つのである。今の状況下では、よほど覚悟が必要であろう。これだけ長年、経文を語るように書き続けてきたにもかかわらず、このような状態に陥るとは、精神力、集中力、忍耐といったものすら無用に感じられてしまう。それでもなお、「是非に及ばず」と受け止めるより他に、道はないのであろうか。

(機関誌 泰斗令和八年二月号 巻頭言より)

是非に及ばず

7月30日

美は乱調にあり 諧調は偽りである

大杉栄(思想家)・伊藤野枝の発した言葉で「美は乱調にあり 諧調は偽りである」があり、瀬戸内寂聴師がそれを解説したものがある。それは決して瀬戸内寂聴師が発した言葉ではない。これらには深い意味があり、私のようなド素人には解説出来る代物ではない。思想的に、闘争の中で、征服が生の拡充を邪魔し、反逆、破壊から「諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある」・・・。「でも実は諧謔=秩序には美がある。そして乱調=混沌にもまた美はあると。美の多様性または多存生が現代では当たり前」・・・と解説された本もある。かく言う私が、この巻頭言で何を言わんかが不明瞭となってしまっている。今の知識では難しい。だから単純に考えてみたい。

「濫觴」と言う言葉がある。「物事の始まり。物事の起こり。起源」と言った意味である。よって造語として「美は濫觴にあり」と思いたい。決して「乱調」ではない。「破壊」もあってはいけない。私自身の大いなる勘違いであるが、とにかく、美しいものには、それなりの根拠があり、それは自然界の法則から、人間が創造したものでもある。本当の美は、本当の「原点の美」「濫觴」を熟してから語られるものでもある。

中国晋代に王義之・蘭亭序がある。真跡は唐代の昭陵へと収められ、その本当の姿は、おびただしい数をつたえる拓本・紙本の向こうに見えかくれするばかり。ミステリアスな蘭亭序。その一節に「契事を修むるなり」がある。その宴に参加する前に、川の畔で水を浴び、厄を払い、汚れを除く禊ぎの儀式をしたと言われている。あの様な宴席での名筆の根本は「禊」である。

「書」の根本は「禊」であって貰いたい。

(機関誌 泰斗令和六年七月号 巻頭言より)

7月30日

今回は~【検証】<<放送事故>>書道歴60年の先生は初心者の下手な字を真似できるのか?~です。

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7月15日

今回は~【楷書の最高峰】72歳書家が本気で書く「九成宮醴泉銘」~です。

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