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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124

今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その97

今回は~【第三十回】泰書展が始まります!~です。

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善意の「書」とは

善意の「書」とは

この原稿を書いているのは六月下旬。八月号の巻頭言として、今の教室の様子を少し振り返ってみたいと思います。

現在、泰書展への出品作品の制作は、いよいよ仕上げの段階を迎えており、すでに完成された方もいらっしゃいます。ここ数カ月にわたって「書」と真摯に向き合ってこられた皆さんの姿勢は、作品の一つ一つからも伝わってきており、本当に素晴らしいと感じています。

それに呼応する様に、出品されない方々も、半紙清書に熱心に取り組まれています。その様子からも、強い熱意や集中力が感じられ、作品に対する真剣な気持ちが伝わってきます。このような雰囲気は、教室全体に自然と根づいてきております。

なぜこれほどまでに、一人ひとりの集中力や熱意が高まっているのでしょうか。それはきっと、「書」と向き合う意識が、お互い感化し合い、深まっているからだと思います。その様な積み重ねが、これから開かれる「第三十一回泰書展」の質を高めている要因ではないでしょうか。

私自身も、教室の真剣な空気に背中を押されながら、日々作品づくりに励んでいます。ふとした瞬間に、会員の皆さんの制作に向かう姿が思い浮かぶこともあり、それは決して他人事では無く、一緒に書き続けているという「仲間意識」のような温かな刺激になっています。皆さんの作品と自分の作品が、心のどこかで繋がっているように感じられるのです。

「書」に限らず、あらゆることの根底には「善」があるべきだと、私は信じております。この考え方は揺らぐことがありません。柳田家の家訓に「真善美」と言う言葉があります。「書」の本質とも深く通じ合う理念だと、改めて実感しています。

(機関誌 泰斗令和七年八月号 巻頭言より)

善意の「書」とは

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その96

今回は~【隷書一気見せ!!】半折課題の隷書作品を仕上げます。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その95

今回は~【半折を書きながら】令和に生きるアナログとデジタルの話~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その94

今回は~【罫引きについて】これぞ「書道」の真髄!罫引きってどうやってやってるの?~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その93

今回は~【先生の悩み】先生が最近「書」で悩んでることを聞いてみた。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その92

今回は~【柳田流の極意】珈琲・樹っていう字のような縦割り三分割の字を上手に書く方法を教えます。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その91

今回は~【FMラジオに出演】歌謡曲と書道について黒木じゅんさんと対談しました!!〜です。

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満願成就

満願成就

「満願成就」とは、願掛けが叶うこと。神仏に祈った願いが成就すること。さて、私自身、百寺納経が達成はされたものの、今では「満願成就」とは程遠い感じがしております。これは不信な言い方かもしれません。正直、神仏に対し、大それた事を誓ったものだなと、正直なところ今は身も縮むほど恐れ入る状態なのです。

確かに、「志は高く・・・」と三十年前に誓った事なのですが、軽はずみな言動であったかもしれません。今であれば腰が引けてしまい、おめおめと経文を書こうとはしなかったかもしれません。そこには当時、泰書會創立という思い枷に縛られた時でしたから、必死な思いで、この軽はずみな思いが生じたのではないでしょうか・・・。「人間必死になると、何をやらかすか・・・」の悪しき例かもしれません。

今では、決して自慢でも無く、達成感も無く、如何にこの成就に対し、深く反省というか、もっとしかるべき対応で、経文に対さなければいけなかったのではと、思い悩んでおります。

各々の作品に対し敬意があったのか。これは経文を書くと言うことは「佛様」に対峙する事にもなります。ただ、信心を持って書くことも大切と考えておりましたが、そこは伏せて、楷書の経文を如何に柳田楷法で書くかに徹底していた事は事実です。そこには柳田楷法の伝統が重くのし掛かっております。伝統を守るのも歯がゆいもの。経文を書くのも、心の思いがうつろでは・・・。とにかく、これからの諸々を甘受して、これからも出来得る限りの真摯な姿勢で経文に対峙し、努力をして精進しなければいけない・・・。

これこそが、三十年の成就の答えなのかもしれません。

(機関誌 泰斗令和七年七月号 巻頭言より)

満願成就

5月15日

柳田泰山百寺納経第七十七箇寺

奈良・真言宗豊山派総本山長谷寺様へ「般若理趣経」が奉納されました。

5月1日

先月、巻頭言で述べた「この号(泰斗四月号)が発行される頃には、少しでも収束される事を祈念・・・」どころではなくなった。今も現に最悪の状態となっている。世界中が不安と恐怖におののいている。

先月はそれでも本部教室でのお稽古が無事に出来、会員諸氏に感謝の意を表した。その中で、多少マスクの話題があった。これは決してマスクを否定する事ではない。今は安全上マスクが必要であろう。ただ「書」のお稽古ではマスクがあっては書きにくいのではないか。そして顔の見えないお稽古がとても難しいと感じた。お稽古は、その方の顔の表情や、目の捉え所でも様子が窺える。顔の様子が解らないお稽古ほど解りにくいものはない。多分、「書」だけではなく、あらゆる分野で同じ事が言える。ある大法要で御僧侶が全員マスクして行ったと言う話を聞いた。これはどう受け止めるかは、個々の問題である。きっと一般では、ご焼香もマスクをしながらであろう。せめてその時くらいはマスクを外してと思うが。

今回の件で「書」において、姿、形の見えないものに如何に対応するかという事が脳裡をかすめた。考えてみれば私の場合、活字・経典から「書」を書いている。それは「書」の手本ではない。頭に記憶として「書」の形が残っている。それを頼りにしている。厳密な事は言い切れないが、何かやはり目に見えない感覚、感性がそこにはあると感じた。実態は活字だけという不思議な感覚がそこにはあった。また、この「書」を先代が見たならば、何と言うかである。脳裡にあるのは泰雲像の記憶だけであるから実態のないものに問いかけている様なもの。それも滑稽なのが、その答えを自分がしている。こんな都合のいいものはない。それが大きな間違いであり、甘い考えでもある、と言い聞かせている。

世界は目に見えない敵と戦っている。その対応が人格にまで及ぶ。「こんな時にこんな事をする・・・」である。誰とは言わないが・・・。テレビでは相変わらず軽率な言い方で、何に向かってか?非難をしている輩がいる。言葉を発した以上どれだけ責任を取れるのであろうか。目に見えないウイルスにどう立ち向かうかはその筋の専門家に任せるしかない。全世界に早く平和を取り戻せる事を祈るしかない。(泰斗5月号 巻頭言より)