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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その48

今回は~【浜松市 書道教室】浜松市にあるお寺でのお稽古のお様子を公開します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その47

今回は~【浜松市 書道教室】浜松市にあるお寺でのお稽古のお様子を公開します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その46

今回は~【書道家の1日】埼玉県安楽寺の百寺納経の仕事に密着した。~です。

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ユネスコ文化遺産

ユネスコ文化遺産

最近、「書」がユネスコ文化遺産に登録されるかもと言うニュースを聞いた。決して異論を唱えるつもりはないが、疑問が生じた。凡人にはほど遠い世界の話である。有形文化遺産と共に、世界的に何かを守ろうとしているのは理解している。

「書」は中国から日本に伝わったものが主である。日本の「書」は、平安時代に遡る。中国の「書」は甲骨文字に遡る。確かにそれらは無形文化遺産の価値はある。然し、一番恐れているのは、現代の日本、中国の「書」までが無形文化遺産と称して、やたら強調されるのは遺憾である。現代の「書」には芸術とはほど遠いものがある。

そもそも、「書」は文字を伝えるのが主。近代に於いて、冒頭に述べた平安時代の「書」の美しさを文化芸術として重要視されている。然し、その「書」は貴族のものであり、一般大衆からは、かけ離れているものである。私自身は「寺子屋」で教わる「お習字」が好きである。大衆芸術であるから好きだとも思っている。私自身は俗人でありながら、「書」を志している。文化、遺産、伝統に拘らず、先人が築いた「書」を、好き勝手に書いているだけである。

現代の芸術は徒党を組んでの啓蒙活動である。個では世の中に通じないのである。「書」の場合も日展が中心で、「書」の存在を明らかにしようとも努力もしている。「芸術」とは・・・」難しい。

この稿を進める中、「自分の存在を残しておきたい・・・」と自己主義的な思いが浮かんできた。それで良いであろうとも思っている。だから「ユネスコ文化遺産」のニュースを聞いた時、何か釈然としないものがあった。「書」を黙々と書いていれば良いのに、誰かが余計な動きをして、この様になってしまった。誤解して貰いたくないのは、それが悪い訳ではない。私自身の考えであると言う事を強調しておく。

ある方が、「ご先代、柳田家の作品はこれからどうなるのですか・・・」と尋ねられた。「作品に力があれば生き残っていくでしょう」と答えた。文化がどうのこうのは、後の方が考えれば良いと思う。今は出来るだけ、個になり「書」を書くしかない。

(機関誌 泰斗令和六年一月号 巻頭言より)

ユネスコ文化遺産

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その45

今回は~上野の森で泰書展を開くので作品を解説します。~です。

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福岡 柳田泰山書展「神の道」開催のお知らせ

この度、縁あって、福岡で書展を開催する運びとなりました。

今年、上野の森美術館で第二十八回泰書展を開催致しました折、特別展として「アート展」と称し、今までとは違った観点の小展覧会を開催致しました。

書道の概念は文房四寳(墨・筆・紙・硯)から成り立っているものが筋でもあります。然し、近代において文房四寳を使用しながらもモダンアートにと言う表現で「書」の領域が広がりました。賛否両論はありますが、芸術の域としては決して否定も出来ないと私は思っております。ただ、本筋の「書」そのものの鍛錬を怠ってはいけない事も事実であります。

「書」の一点一画は、部分として見ますと美しい線が画かれているのもあります。最たるものは、日本の書芸術として仮名世界がそうではないかと思います。以前、その仮名の線の一部を切り取り拡大をしたところ、一本数ミリの中に活き活きとした線を発見することも出来ました。

現在、楷書を中心とした試行錯誤が顕著になっており、今後の「書」に如何に対峙していくかの模索の心境になっております。今回の様な一つのきっかけで、小さき世界の発見があり、そこから原点回帰に繋がる事を意識しつつもあります。今回の書展は自分に対しての新たなる挑戦の一歩、それが、どの様に「楷書」の道に繋がるかの期待感もあります。

初めての九州での書展、どうか九州・福岡に在住のお知り合いがございましたならば、お知らせして頂き、ご高覧頂ければ幸いです。

私自身、十一月三日(木・祝)・四日(金)の午前十一時より午後五時まで会場におります。お声をかけて頂ければ幸いです。

5月15日

柳田泰山百寺納経第七十七箇寺

奈良・真言宗豊山派総本山長谷寺様へ「般若理趣経」が奉納されました。

5月1日

先月、巻頭言で述べた「この号(泰斗四月号)が発行される頃には、少しでも収束される事を祈念・・・」どころではなくなった。今も現に最悪の状態となっている。世界中が不安と恐怖におののいている。

先月はそれでも本部教室でのお稽古が無事に出来、会員諸氏に感謝の意を表した。その中で、多少マスクの話題があった。これは決してマスクを否定する事ではない。今は安全上マスクが必要であろう。ただ「書」のお稽古ではマスクがあっては書きにくいのではないか。そして顔の見えないお稽古がとても難しいと感じた。お稽古は、その方の顔の表情や、目の捉え所でも様子が窺える。顔の様子が解らないお稽古ほど解りにくいものはない。多分、「書」だけではなく、あらゆる分野で同じ事が言える。ある大法要で御僧侶が全員マスクして行ったと言う話を聞いた。これはどう受け止めるかは、個々の問題である。きっと一般では、ご焼香もマスクをしながらであろう。せめてその時くらいはマスクを外してと思うが。

今回の件で「書」において、姿、形の見えないものに如何に対応するかという事が脳裡をかすめた。考えてみれば私の場合、活字・経典から「書」を書いている。それは「書」の手本ではない。頭に記憶として「書」の形が残っている。それを頼りにしている。厳密な事は言い切れないが、何かやはり目に見えない感覚、感性がそこにはあると感じた。実態は活字だけという不思議な感覚がそこにはあった。また、この「書」を先代が見たならば、何と言うかである。脳裡にあるのは泰雲像の記憶だけであるから実態のないものに問いかけている様なもの。それも滑稽なのが、その答えを自分がしている。こんな都合のいいものはない。それが大きな間違いであり、甘い考えでもある、と言い聞かせている。

世界は目に見えない敵と戦っている。その対応が人格にまで及ぶ。「こんな時にこんな事をする・・・」である。誰とは言わないが・・・。テレビでは相変わらず軽率な言い方で、何に向かってか?非難をしている輩がいる。言葉を発した以上どれだけ責任を取れるのであろうか。目に見えないウイルスにどう立ち向かうかはその筋の専門家に任せるしかない。全世界に早く平和を取り戻せる事を祈るしかない。(泰斗5月号 巻頭言より)