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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その108

今回は~【本邦初公開!!】籠文字を使った書道の上達方法を教えます。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その107

今回は~【墨の濃淡】楷書で3パターンの濃淡をお見せします!!~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その106

今回は~【ついに南ヨーロッパ進出】フランスで席上揮毫をして来ました!!~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その105

今回は~【扇子編】書家の色んなお仕事に密着しました。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その104

今回は~【書道の裏側】大字の準備から書き終わりまでを見せます!!~です。

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「書」を見ること、観察する事の違い

「書」を見ること、観察する事の違い

巷の書道教室や、泰書會書道教室においても、「よく手本を見なさい」という言葉が常套句のように繰り返されている。だが果たして、それは本当に正しい指導と言えるのだろうか。

近頃、私はこの「手本の見方」そのものに違和感を覚えるようになっている。「手本通りに書く」とは、一体どういうことなのか。確かに、そのように言ってしまえば話は簡単に済むのかもしれない。しかし、それで本当に良いのだろうか。

たとえば、書道界において最高峰の名筆と称される『蘭亭序』がある。その芸術性には、確かに深く頷けるものがある。また、楷書の模範として名高い『九成宮醴泉銘』は、楷書を学ぶ者にとって必ず習得すうべき手本とされている。これら二大名品は、書道の頂点に位置する存在であることに異論はない。

では、学ぶ者はどのような姿勢でこれらに向き合うべきなのか。やはり「手本通り」に学ぶべきなのか。

一方では、宴席で書かれた即興の書であり、他方は唐の太宗皇帝の勅命により書かれた荘厳な碑文である。これら二つの書には、我々凡人には計り知れない深淵な世界が広がっている。したがって、「手本通りに書く」ことは、そもそも不可能なのではないだろうか。

ここには、「ただ見る」ことと「深く観察する」ことの大きな違いが出てくる。時代背景や筆・墨・紙の性質、それぞれの用具の妙味を深く理解しなければ、その本質には決して迫ることはできない。そして何より、「書」を書いた人物の思想や生き様に思いを巡らさなければならない。王義之の人生、歐陽詢生き様を知らずして、果たしてその書を理解したと言えるのか。

ただ漫然と見るのではなく、心を込めて観察すること。そこにこそ真の学びがあると、私は強く感じている。

(機関誌 泰斗令和七年十一月号 巻頭言より)

「書」を見ること、観察する事の違い

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124

今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。

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5月24日

今回は~【草書を書いてみた】柳田先生は楷書以外も上手に書けるんですか?~です。

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5月13日

棋道と書道

偶々、毎月のYOUTUBE取材で財団法人日本棋院にお邪魔した。「棋道と書道」の話をしたく日本棋院の玄関をくぐり抜けた時、どこか勝負の世界の異様な空気を感じた。昔、高校野球の聖地、甲子園に行った時も、汗と涙とが入り交じったグラウンドを異様に感じた。それと同じ空気が日本棋院にはあった。もちろんド素人の自分だけが感じたものではあるが、どこか足がすくんだ。

一つの理由として先代・泰雲が棋道にかなり拘っていた事があろう。泰雲が「書」以外で、没頭したのが囲碁であった。時には凄まじいほどの勢いで毎日、宿敵と打っていた記憶が鮮明に残っている。自分には到底入り込めない世界であった。ただ、泰書會創立時から、碁を打たぬ自分と、藤沢秀行先生を始め、多くの棋士との交流が続いている。

「琴棋書画」と云う言葉がある。中国から伝わって来た言葉であろう。「琴」は音楽、「棋」は囲碁、「書」は書法・書道、「画」は画である。中国では文化人の嗜みなのであろう。どこに行っても「琴棋書画」の雰囲気があった。ただ、現代では中々そこまで風流とはいかなくなった。これは文明の発達のせいであろう。音楽は、今やパソコン主流、楽譜が読めなくてもコンピューターで作れる。囲碁は中国ではスポーツに属する。勝てばいいのである。そしてAIとの共存、AIから学んでもいる。昔の中国は日本の縁側で囲碁を打つシーンが消えてしまった。「書」と言えばパフォーマンスが主流。組織の傀儡となっている。「画」もAIがかなり入り込んでいる。

何が言いたいのか・・・解らぬ。少々寂しい気がしただけ。私自身は「書」の世界で生きているので、昔方式の「書」を書き続けるしかない。現状に逆らうつもりも、否定するつもりもない。ただ、一人でも多くの人が人間らしい「琴棋書画」を大切にして貰いたいだけである。

(機関誌 泰斗令和五年五月号 巻頭言より)

5月12日

今回は~【質問コーナー後編】柳田泰山72歳が伝える「書」の魅力と日本の文化について~です。

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