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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その105

今回は~【扇子編】書家の色んなお仕事に密着しました。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その104

今回は~【書道の裏側】大字の準備から書き終わりまでを見せます!!~です。

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「書」を見ること、観察する事の違い

「書」を見ること、観察する事の違い

巷の書道教室や、泰書會書道教室においても、「よく手本を見なさい」という言葉が常套句のように繰り返されている。だが果たして、それは本当に正しい指導と言えるのだろうか。

近頃、私はこの「手本の見方」そのものに違和感を覚えるようになっている。「手本通りに書く」とは、一体どういうことなのか。確かに、そのように言ってしまえば話は簡単に済むのかもしれない。しかし、それで本当に良いのだろうか。

たとえば、書道界において最高峰の名筆と称される『蘭亭序』がある。その芸術性には、確かに深く頷けるものがある。また、楷書の模範として名高い『九成宮醴泉銘』は、楷書を学ぶ者にとって必ず習得すうべき手本とされている。これら二大名品は、書道の頂点に位置する存在であることに異論はない。

では、学ぶ者はどのような姿勢でこれらに向き合うべきなのか。やはり「手本通り」に学ぶべきなのか。

一方では、宴席で書かれた即興の書であり、他方は唐の太宗皇帝の勅命により書かれた荘厳な碑文である。これら二つの書には、我々凡人には計り知れない深淵な世界が広がっている。したがって、「手本通りに書く」ことは、そもそも不可能なのではないだろうか。

ここには、「ただ見る」ことと「深く観察する」ことの大きな違いが出てくる。時代背景や筆・墨・紙の性質、それぞれの用具の妙味を深く理解しなければ、その本質には決して迫ることはできない。そして何より、「書」を書いた人物の思想や生き様に思いを巡らさなければならない。王義之の人生、歐陽詢生き様を知らずして、果たしてその書を理解したと言えるのか。

ただ漫然と見るのではなく、心を込めて観察すること。そこにこそ真の学びがあると、私は強く感じている。

(機関誌 泰斗令和七年十一月号 巻頭言より)

「書」を見ること、観察する事の違い

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124

今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。

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3月15日

今回は~第二十八回泰書展を終えて。~です。

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3月8日

前号の続きであるが、文化遺産に携わっている方は大変なご苦労がある。然し皮肉にも人類は、破壊に向かっている。脳もAIに浸食されている。文化どころではない。だからこそ、文化を守ろうとしているのであろう。芸術・文化の発展はどうなるであろうか。

「書」に関して言えば、先ず、道具、材料が無くなった。筆はナイロン、墨は墨汁、紙はパルプ、硯はセラミック、その中で善いものが生まれる筈がない。よしんば、良い物を手に入れたとしても、かなりの高額になる。お金が無ければ良いものは生まれない。前号の貴族的立場の人しか生き残れない。「書」の世界は危機的な現状である。もう終わっているのかも知れない。

その様な中で、文化がどうのこうのは矛盾している。反論の方は大勢おられる。現実、その世界に携わっている方々には悲劇である。周りは「そんな事はない。クラウドファンディング、国から基金・支援金・給付金等々をして貰えばいいのでは・・・」本当に無責任である。言うは易しである。

これはかなりネガティブである。私自身は少々疲れている。自分で蒔いた種で自爆になりかねない。作品を書く上で、筆、紙、墨、硯を固守している事が。やや力尽きている部分がある。あの、鳥の子特号紙が使えた時代が懐かしい。筆も羊毫と言って、馬の毛以上に品質が良い時代があった。墨は膠が無くなり、硯は凡人の手には入らなくなってしまった。人間、ヤケクソになってはいけない。さて、これから残りの人生、道具とどの様に対峙していくのか、考えさせられる。

指導をしている立場であるから、会員にも出来うる限り考慮して行きたい。七十を過ぎ、ベストを尽くし真摯な指導・・・。楽しい時間をつぶし、生業的な「書」では無く、「書」を守る文化を伝えたい。それこそ伝統文化の良さを多くの方に知ってもらいたいが為に最善を尽くしていきたい。

しれにしても現実は怖いもの。天変地異の中、人間は未だに自らが破壊行為に進んでいるのである。

(機関誌 泰斗令和六年三月号 巻頭言より)