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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その127

今回は~【大字がうまく書けない人へ】大字の書き方を劇的に変える!柳田流の秘訣~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その126

今回は~【正しい楷書はどれだ!?】柳田流の楷書のこだわりについて解説します。~です。

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模倣はもっとも誠実な称賛の形

模倣はもっとも誠実な称賛の形

「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。

たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。

臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。

ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。

要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。

(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)

模倣はもっとも誠実な称賛の形

7月25日

今回は~【中国・漢の時代の書体】泰山先生に隷書で半折を書いてもらいました。~です。

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7月15日

今回は~【書道家の道具紹介】筆1本〇百万円!? 書家が筆にこだわる理由とは?~です。

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7月10日

自受法楽の「書」

三月上旬に、中國・洛陽からの依頼で、日本人の書家数名の書展を開催したいとの連絡を受け、多少は躊躇したものの、久ぶりに臨もうと重い腰を上げた。字数にして何点かの合計が五千字弱はある。それも作品締め切りが五月中旬である。結果、この原稿を書いていられるという事はそれを達成した事にもなる。

それから、御奉納作品制作が数点あり、時数にして四千字弱ある。その作品は今現在も進行している。この二つの出来事は私にとって、荷の重い制作でもあった。全てにおいて時間との闘いとなる。

「書」は漠然と書いてはいけない。そこに作家たる信念を持って、全知全能を傾けて臨まなければならない。ましてや経文となれば尚更である。煩悩の塊の自分がどこまで耐えられるものか不安でもあった。

なんだか、この様な事を書けば自慢話になってしまう。それでも、記事として書き残しておこうとしている自分がいる。「書」を書く時、昔、仏道の師より「自受法楽」と言う言葉を教わった。意味としては「仏が、自らの悟りの内容を深く味わい楽しむこと。転じて、法悦にひたること」である。勿論それは正論であるが、実は、人はその真逆になると諭された。俗に、自己満足、悦に入る・・・悪い方向に向かってしまう。「自信と過信は紙一重である」仙台もかなり我々に諭していた。

これだけの量を書けば達成感がある筈だったのが、その「自受法楽」が頭の中にあり、不思議な思いで数点を書き終えた。思い描いている自分と、書き終わった自分に違いを感じた。どこにも自己満足がない。いや、もっと上手く書けるのではと思っているが、前述した時間との妥協である。

こんな混沌とした時代に悠長な事を述べているが、本人は必至な思いでもある。そして、この経文との対峙は、ここ数年は続くであろう。

(機関誌 泰斗令和五年七月号 巻頭言より)