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今回は~【書の奥深さを知る動画】「龍」を五書体で書いてみた~です。
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我に七十難八十苦を与えたまえ
我に七十難八十苦を与えたまえ
愚かな話である。いい歳をして何をか言わんや・・・。
人、各々の生き方がある。これは、年寄りの戯言とご容赦願いたい。最近、会員や巷からも「終活」を聞く。私にとっては、とんでもない「死ぬまで書き続けていく・・・」。終わりの準備をする余裕なんて考えられない。それも冒頭に申し上げた、人、各々である・・・。失礼な言葉だがお許し願いたい。
「終活」するならば、自分の為に努力し、それを残していけばよい。それをどう活かすかは後の者に託す。恩着せがましく、「誰それの為に」はおかしいと思う。命有る限り、自分を大切にして貰いたい。「終活」ではなく、生きていく為の「生活」になるべき。「終活」のエネルギーがあるならば、それを「生活」に変えた方がよい。その為には、先ず自分を大切にしなければいけない。そうでなければ、相手も幸せにならない。自分を犠牲にして、相手が幸せになる事はない・・・これも言い過ぎであろう。
私自身は求めている「書」がある。然し、最近は「書」の方が私に要求してくる。「お前はこれが書けるのか・・・書けるものなら書いてみろ・・・」。それも挑発的に聞こえてくる。頭の中がごちゃごちゃになる。
世間からは、悠長な事言って、ノウテンキと言われそう。でも私は必死である。何故ならば、「書」を残さなければいけない。それも、後の人々に理解してもらう「書」をである。「書生活」していかなければならない。子供の頃に「我に七難八苦をあたえたまえ」と言われた。未だにそれが忘れられない。それは七歳くらいの時。今は✕十である・・・。
(機関誌 泰斗令和六年九月号 巻頭言より)
Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その57
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7月10日
自受法楽の「書」
三月上旬に、中國・洛陽からの依頼で、日本人の書家数名の書展を開催したいとの連絡を受け、多少は躊躇したものの、久ぶりに臨もうと重い腰を上げた。字数にして何点かの合計が五千字弱はある。それも作品締め切りが五月中旬である。結果、この原稿を書いていられるという事はそれを達成した事にもなる。
それから、御奉納作品制作が数点あり、時数にして四千字弱ある。その作品は今現在も進行している。この二つの出来事は私にとって、荷の重い制作でもあった。全てにおいて時間との闘いとなる。
「書」は漠然と書いてはいけない。そこに作家たる信念を持って、全知全能を傾けて臨まなければならない。ましてや経文となれば尚更である。煩悩の塊の自分がどこまで耐えられるものか不安でもあった。
なんだか、この様な事を書けば自慢話になってしまう。それでも、記事として書き残しておこうとしている自分がいる。「書」を書く時、昔、仏道の師より「自受法楽」と言う言葉を教わった。意味としては「仏が、自らの悟りの内容を深く味わい楽しむこと。転じて、法悦にひたること」である。勿論それは正論であるが、実は、人はその真逆になると諭された。俗に、自己満足、悦に入る・・・悪い方向に向かってしまう。「自信と過信は紙一重である」仙台もかなり我々に諭していた。
これだけの量を書けば達成感がある筈だったのが、その「自受法楽」が頭の中にあり、不思議な思いで数点を書き終えた。思い描いている自分と、書き終わった自分に違いを感じた。どこにも自己満足がない。いや、もっと上手く書けるのではと思っているが、前述した時間との妥協である。
こんな混沌とした時代に悠長な事を述べているが、本人は必至な思いでもある。そして、この経文との対峙は、ここ数年は続くであろう。
(機関誌 泰斗令和五年七月号 巻頭言より)