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今回は~【大迫力の楷書!!】大きな筆で書かれる迫力満点の大字作品~です。
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今回は~【書家の作品づくりに密着】大迫力!!書家が大字で創り出す美しい世界~です。
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今年をふり返り・・・
今年をふり返り・・・
今年一年も慌ただしい年となりました。ただ、世界を見渡しても、目まぐるしく、慌ただしく、お祭り騒ぎの如く、時が流れてしまっています。この速さには到底ついていけない方々も沢山いたのではないでしょうか。これは人間にとってかなりきついものではあります。どこか破壊に繋がっている様な気が致します。私自身も、無我夢中で時間を貪っている気が致しました。その都度、反省はしているつもりですが、現実がそうはさせない状況になっております。来年の抱負など言えず、令和七年に突入ともなります。
さて、今年の泰斗を一月号から見ますと、在北京日本国大使館訪問記事から始まり、二月上旬には、再度、百寺奉納の打ち合わせで北京へ。三月には中国徽州(安徽省黄山市)へ。そして四月号泰斗誌上学生展、五月号には師範会記事、その頃には、会員諸氏の第三十回泰書展作品制作のピーク。六月号には、青森・弘前市本迹院の奉納式。六月末には泰書展作品締めきり、泰書展の準備佳境となる。八月末から九月上旬は泰書展開催。特に今回は三十回記念のため、中国から沢山のお客様が来場され、慌ただしい開催ともなりました。九月号は奈良・南明寺の奉納式の記事が掲載されております。そして、十一月号には、中宮寺奉納式。十二月号には中国杭州・径山寺の奉納式。そして十一月九日、法隆寺への奉納式と行事が続いております。この一年の抜粋を記してみました。
振り返れば、諸々の事は、私一人の力ではない。スタッフ、会員、関係各位、中国の皆様のお力添えで、成し得た事であります。自分の力はほんの僅かなもの。今年は、皆々様のお陰にて成り立っている事を肝に銘じて感謝の気持ちを述べます。本当にありがとうございました。
(機関誌 泰斗令和六年十二月号 巻頭言より)

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11月17日
今はやりの言葉です。然し、この使い方がいい加減になってしまってきているのではないでしょうか。
癒しとは、病がなおるという意味であります。ところが現代では「癒し系」とか称していることが多くあります。全く不思議な言葉となってしまったようです。尤も、日本語は文明の力によって変わってくるともいわれているから仕方が無いのかもしれません。ところが、こと芸術の世界ではこの「癒し」はいい言葉ではないと、私は感じております。ただ単に「癒し系」と称されている芸術は本当の芸術ではないと思います。
本来の芸術はその深遠さがあって、初めて芸術と成り得るものです。その深遠さとは、厳しさも入っているでしょう。その作家の信念・厳しさをやり通した芸術に、精神が入ってきます。その精神を我々が、見て、聴いて、感じて、はじめて心洗われるのではないでしょうか。決して病を持っている人々だけが見ているのではなく、国籍を問わず、人々が感ずるものであります。
そして、その感じ方にも色々あるでしょう。心が洗われたり、希望を持たされたり、生命感を抱くことが出来たり、愛を感じたりするものがあります。それは、決して癒されているのでは無いと思います。敢えて、譲歩すれば、病ある方が前述したことを感じて救われる場合があるかもしれません。
私は、素晴らしい芸術を感じた時は決して癒されたとは思いません。寧ろ、もっと確りせねばならないと奮起する性格かもしれません。又、私自身も病を持つ時もありますが、その時には芸術を感じることが出来るでしょうか。恐らく出来ないでしょう。病に対する癒しは全く別の世界にある筈です。恐らく、人から癒される場合が多いのではないでしょうか。
私は「癒し」と云う言葉を否定するつもりはありません。ただし芸術の世界ではこの言葉が遣われるのが全く以て不可解ということを述べたいだけです。(泰斗 平成十五年四月号より)
11月1日
「書」では「柔」と「剛」と言う標語がある。それは筆が醸し出す線である。これは大事な表現方法である。
「柔」は風になびく柳の如く、「剛」は岩山のごとく毅然としたもの。一つの作品には不文律でありながら、ありとあらゆる変化が表現されている。例えば一つの書体、楷書ではどうであろうか。実は他の書体以上に軽妙、剛健、素朴、勁峻が表現出来ると最近解ってきた。当然、各書体に千差万別の表現方法があり、それが本来の「書」であろう。それに邁進するのが私の書人生である。
「脱皮」。ニーチェの言葉に脱皮しない蛇は死滅するというのがある。人間も心の有様においてまったく同じであろう。でないと内側から腐っていき、成長が止まり、極端になれば命さえ落としてしまう。常に新しく生きて行くためには「柔」と「剛」のリズムを素として新陳代謝も図らなくてはいけない。
私事ではあるが、若い時の「書」は決して面白くない。その時は精一杯の感があっても、今、振り返れば恥ずかしいものがある。ただ、その面白くない「書」に気付き、脱皮出来ればいいのである。若い時はまだそれが出来る。ただ歳をとると難しいものがある。その歳という言葉に騙され、「わび」「さび」「かれ」「円熟」にすげ替えられてしまう。また増長も芽生えてくる。歳をとると言う事は難しい。ただ、生きて行く中でこのような自戒をするのも良いであろう。
最近は何かにつけ敏感になっているようだ。これも歳のせいであろう。それを払拭するが如く「書」に専念しようと思う此頃である。