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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その54

今回は~72歳本気の漢詩・楷書をドローンで撮影してみた。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その53

今回は~【小学校で書道教えてみた。】小学生の前で席上揮毫する72歳の書家~です。

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塵を払わん、垢を除かん

塵を払わん、垢を除かん

ある法話の中で「塵を払わん、垢を除かん」と言う言葉だけが残った。と言ったら、その師には大変失礼であろう。然し、法話を聞くと言う事は、在家の者にとって、どれだけ大変であるかはお察し願いたい。今は便利なスマホで録音も出来るかもしれぬが、法話中のスマホいじりは厳禁と思っているので、ただ只管に聞くのみであった。難しい言葉の中で「塵を払わん、垢を除かん」・・・、早速、事務所に戻り、便利なインターネットで調べた結果、魔訶般得(まかはんどく)と周利般得(しゅりはんどく)が現れた。これを読まれた方で興味を持たれたならば、是非、諸々の本やそれこそネットで調べて貰いたい。

出来の悪い弟(周利般得)が、お釈迦様から彼に一本の箒を与えられ、毎日、寺の庭を掃きながら、「塵を払わん、垢を除かん」の、ただ短い二句だけを暗誦えるように訓されました。この日から周利般得は怠ることなく庭を掃き続けました。やがてこの二句の意味を深く知るところとなり、暇さえあれば、この二句を誦し続けてやまなかったのでした。

正に自分がその出来の悪い醜老である。毎日、「書」を書いても悟れない。多分、永遠に悟れないであろう。でも辞めるわけにはいかない。然し、この「塵を払わん、垢を除かん」を見聞きし、これが自分に対する励みの言葉と解った。毎日、掃除をして、「塵を払わん、垢を除かん」と唱えるしかない。

因みに、悟りを得た周利般得は比丘尼精舎において、皆から慕われるような存在となった。

文献には「道を求めるには、なんといってもこのひたむきなところが大切であります」と締めくくられていた。

(機関誌 泰斗令和六年六月号 巻頭言より)

塵を払わん、垢を除かん

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その52

今回は~【72歳の新しい挑戦!!】書道歴60年の柳田泰山がモダンアートに挑戦した。(福岡天神通り)~です。

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11月17日

今はやりの言葉です。然し、この使い方がいい加減になってしまってきているのではないでしょうか。

癒しとは、病がなおるという意味であります。ところが現代では「癒し系」とか称していることが多くあります。全く不思議な言葉となってしまったようです。尤も、日本語は文明の力によって変わってくるともいわれているから仕方が無いのかもしれません。ところが、こと芸術の世界ではこの「癒し」はいい言葉ではないと、私は感じております。ただ単に「癒し系」と称されている芸術は本当の芸術ではないと思います。

本来の芸術はその深遠さがあって、初めて芸術と成り得るものです。その深遠さとは、厳しさも入っているでしょう。その作家の信念・厳しさをやり通した芸術に、精神が入ってきます。その精神を我々が、見て、聴いて、感じて、はじめて心洗われるのではないでしょうか。決して病を持っている人々だけが見ているのではなく、国籍を問わず、人々が感ずるものであります。

そして、その感じ方にも色々あるでしょう。心が洗われたり、希望を持たされたり、生命感を抱くことが出来たり、愛を感じたりするものがあります。それは、決して癒されているのでは無いと思います。敢えて、譲歩すれば、病ある方が前述したことを感じて救われる場合があるかもしれません。

私は、素晴らしい芸術を感じた時は決して癒されたとは思いません。寧ろ、もっと確りせねばならないと奮起する性格かもしれません。又、私自身も病を持つ時もありますが、その時には芸術を感じることが出来るでしょうか。恐らく出来ないでしょう。病に対する癒しは全く別の世界にある筈です。恐らく、人から癒される場合が多いのではないでしょうか。

私は「癒し」と云う言葉を否定するつもりはありません。ただし芸術の世界ではこの言葉が遣われるのが全く以て不可解ということを述べたいだけです。(泰斗 平成十五年四月号より)

11月1日

「書」では「柔」と「剛」と言う標語がある。それは筆が醸し出す線である。これは大事な表現方法である。

「柔」は風になびく柳の如く、「剛」は岩山のごとく毅然としたもの。一つの作品には不文律でありながら、ありとあらゆる変化が表現されている。例えば一つの書体、楷書ではどうであろうか。実は他の書体以上に軽妙、剛健、素朴、勁峻が表現出来ると最近解ってきた。当然、各書体に千差万別の表現方法があり、それが本来の「書」であろう。それに邁進するのが私の書人生である。

「脱皮」。ニーチェの言葉に脱皮しない蛇は死滅するというのがある。人間も心の有様においてまったく同じであろう。でないと内側から腐っていき、成長が止まり、極端になれば命さえ落としてしまう。常に新しく生きて行くためには「柔」と「剛」のリズムを素として新陳代謝も図らなくてはいけない。

私事ではあるが、若い時の「書」は決して面白くない。その時は精一杯の感があっても、今、振り返れば恥ずかしいものがある。ただ、その面白くない「書」に気付き、脱皮出来ればいいのである。若い時はまだそれが出来る。ただ歳をとると難しいものがある。その歳という言葉に騙され、「わび」「さび」「かれ」「円熟」にすげ替えられてしまう。また増長も芽生えてくる。歳をとると言う事は難しい。ただ、生きて行く中でこのような自戒をするのも良いであろう。

最近は何かにつけ敏感になっているようだ。これも歳のせいであろう。それを払拭するが如く「書」に専念しようと思う此頃である。