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書き貫く

書き貫く

三十年の歳月をかけて、ただひたすら経文を書き続けてきた。筆を取り、心を静め、古風豊かな和紙に一字一字を刻むその営みは、単なる書写を超えて、一種の修行であり、辛いものであった。

書体は当然、楷書。整い、乱れず、常に同じ調子を保つことは、容易なことではない。しかしこの正しさの中にこそ、書き手の精神が反映される。楷書にはごまかしがきかない。心が乱れれば、線も歪む。だからこそ、毎回筆を取るたびに、己の内面と対峙しなければならなかった。厳しい世界でもあった。

墨を磨る時間もまた、かけがえのないものであった。墨の香に包まれながら、手を止め、古き良き伝統の墨を磨る時は、過去を思う時もある。そして、いつしか墨を磨る時、「書くこと」が目的ではなく、「書き貫くこと」そのものが生きる支えとなってきた。

日々経文を書き、同じ文字を書いていても、不思議と一度たりとも々「書」にはならない。体調、天候、心のわずかな揺れすらが筆先に現れる。逆にいえば、三十年の書の積み重ねには、その時その時のすべてが映し出されている。そこには、表現を超えた「精神の形」が宿っていると感じる。

書くという行為の先に、祈りがあり、願いがあり、そして己の静かな在り方があった。ただ書くのではなく、「書き貫く・・・」。この三十年間は、経文を通して自らを見つめ続けた、終わりなき道のりであった。

(機関誌 泰斗令和七年十月号 巻頭言より)

書き貫く

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その103

今回は~【YouTube初公開!!】お手本よりも大事な「書」の骨組みについて解説します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その102

今回は~【質問リクエスト】道具の保管方法を話をしながら楷書を書きます。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その101

今回は~【泰書展の様子】節目の第三十回!!音楽・授賞式・大字が魅せる大迫力の泰書展~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その100

今回は~【100回記念!!】YouTube観てくれる皆様に感謝を申し上げたい。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その99

今回は~「書」は幾何学也。~です。

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今回は~【大迫力!!】久しぶりに大字を書いてみた。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その124

今回は~【第三十一回泰書展】酷暑の厳しい今年も開催!!みなさんも是非遊びにきてください!~です。

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善意の「書」とは

善意の「書」とは

この原稿を書いているのは六月下旬。八月号の巻頭言として、今の教室の様子を少し振り返ってみたいと思います。

現在、泰書展への出品作品の制作は、いよいよ仕上げの段階を迎えており、すでに完成された方もいらっしゃいます。ここ数カ月にわたって「書」と真摯に向き合ってこられた皆さんの姿勢は、作品の一つ一つからも伝わってきており、本当に素晴らしいと感じています。

それに呼応する様に、出品されない方々も、半紙清書に熱心に取り組まれています。その様子からも、強い熱意や集中力が感じられ、作品に対する真剣な気持ちが伝わってきます。このような雰囲気は、教室全体に自然と根づいてきております。

なぜこれほどまでに、一人ひとりの集中力や熱意が高まっているのでしょうか。それはきっと、「書」と向き合う意識が、お互い感化し合い、深まっているからだと思います。その様な積み重ねが、これから開かれる「第三十一回泰書展」の質を高めている要因ではないでしょうか。

私自身も、教室の真剣な空気に背中を押されながら、日々作品づくりに励んでいます。ふとした瞬間に、会員の皆さんの制作に向かう姿が思い浮かぶこともあり、それは決して他人事では無く、一緒に書き続けているという「仲間意識」のような温かな刺激になっています。皆さんの作品と自分の作品が、心のどこかで繋がっているように感じられるのです。

「書」に限らず、あらゆることの根底には「善」があるべきだと、私は信じております。この考え方は揺らぐことがありません。柳田家の家訓に「真善美」と言う言葉があります。「書」の本質とも深く通じ合う理念だと、改めて実感しています。

(機関誌 泰斗令和七年八月号 巻頭言より)

善意の「書」とは

8月18日

先日、ある書展を見に行きました。その会は墨の濃淡を巧みに表現される書道界では代表的な書展であった。見応えはありましたが、然し、何か釈然としないものを感じました。又、多くの書道雑誌を巷では見ることが出来るようになりました。でもやはり内容に釈然としないものが残りました。「一体書道はこれで良いのか・・・?」そんな思いが致します。

どんな書展でも、書作品でも人間がこなしているものであります。但し、昨今ではコンピューターによる書の表現がありますが、これは不快すら感じられるものがあります。そして今では人間が醸し出す「書」にも不快なものが多く見られるようになりました。一体、どこがおかしいのでしょうか。結論を先に述べてしまえば、「今の書には正確性が全く見られない」そんな結論が出てしまうのです。只、闇雲に感情を露にしたものが「書」として多く出てしまっているのです。これは「書」に限ったものでないかもしれません。総ての芸術・文化に言えているのではないでしょうか。

芸術は人間の感性だけの問題で片付けられません。そこに真正なる正確性が必要なのです。寧ろ、正確な線・形が優先されるべきでしょう。次に人間の感性・感情が表現されるべきでしょう。これは子供の書を見れば解ることでしょう。子供の書は純粋です。然し、正確性は余程のことが無い限り求められません。でもそこに描かれたものは感情が豊かなものであります。でも芸術とは言えません。

古来から残された芸術には感情豊かな繊細さがありました。その繊細さは要するに正確性なのです。正確なくして繊細はあり得ません。

現代では感情だけではいいものが出来ないのを分かっていても、なぜが芸術と総評してしまうのは一体どういうことなのでしょうか。理解する人が少なくなったのか、それが当たり前となってしまったのでしょうか。

総べて書の理想は、真正なる正確性があって、感情豊かなものではないでしょうか?(泰斗 平成十三年四月号より)

8月1日

病後の「書」の所作がこれほど辛かったとは。今までは長期海外出張などの時は、帰ってから直ぐに筆が持てたのに、今回ばかりは、まったくと言っていいほど筆が持てなかった。これには自分自身もショックで、心の奥底に「おしまいだ・・・」という思いがした。周りの人からは、少しでも散歩でもして気分転換したら・・・と温かい助言を頂きました。ただ私としては、それより何より筆が持てない事の方がとても気が気ではありませんでした。散歩どころではありません。(元来、散歩は苦手な部類)。

「健全なる肉体に健全なる魂」と言う言葉があります。その時は正に、その二つを失ってしまった感じでした。そこで改めてその事を考えると、自分としては「健全なる魂」が重要であり、その魂から「健全なる肉体」が生ずるのではと思いました。この二つの関係にどちらが先という正論はありません。いずれにせよ、その状況下においては「健全なる魂」を確り構築していかなければならないと思い、本を貪り読む方法をとりました。どこかにヒントがあるのでは・・・。それに併せて毎日、筆を持つ事を心がけました。この点は昔から書く事には飽きがこない性分が良かったのか、「駄目だ駄目だの連呼、やめちまえ・・・」といった状況でも「書」を書いておりました。

そして二週間が経過し、漸く筆が運べる様になりました。この時、回復の為には、今自分が一番必要なものを徹底的にするのが良いと思いました。粗療治かもしれません。そこは人によってやり方が違います。ただ、今、私自身はその回復の為の書き込みが功を奏した事は事実です。

書人である以上、書く事を優先とする。勿論、その中で、周囲の方々に対する敬意を確り持つことが何よりです。自分の力だけではどうにもならないし、自分の力で全ての事が成るとは絶対にあり得ない訳です。特に今回は、大勢の方々の協力があったからこそです。この度の事、ありとあらゆる方に感謝あるのみです。その様な思いを確り持ち、これからの「書」人生を大切にしなければなりません。

今回の件で、大勢の方が自分の「書」の歩みの手助けをしていただいた経験は、今までに無い感覚でもありました。