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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その60

今回は~【行書のバイブル】幻の蘭亭序について語ります。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その59

今回は~【先生がやりたかったこと】短鋒と長鋒で楷書を書いてみた。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その58

今回は~【書の奥深さを知る動画】「龍」を五書体で書いてみた~です。

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我に七十難八十苦を与えたまえ

我に七十難八十苦を与えたまえ

愚かな話である。いい歳をして何をか言わんや・・・。

人、各々の生き方がある。これは、年寄りの戯言とご容赦願いたい。最近、会員や巷からも「終活」を聞く。私にとっては、とんでもない「死ぬまで書き続けていく・・・」。終わりの準備をする余裕なんて考えられない。それも冒頭に申し上げた、人、各々である・・・。失礼な言葉だがお許し願いたい。

「終活」するならば、自分の為に努力し、それを残していけばよい。それをどう活かすかは後の者に託す。恩着せがましく、「誰それの為に」はおかしいと思う。命有る限り、自分を大切にして貰いたい。「終活」ではなく、生きていく為の「生活」になるべき。「終活」のエネルギーがあるならば、それを「生活」に変えた方がよい。その為には、先ず自分を大切にしなければいけない。そうでなければ、相手も幸せにならない。自分を犠牲にして、相手が幸せになる事はない・・・これも言い過ぎであろう。

私自身は求めている「書」がある。然し、最近は「書」の方が私に要求してくる。「お前はこれが書けるのか・・・書けるものなら書いてみろ・・・」。それも挑発的に聞こえてくる。頭の中がごちゃごちゃになる。

世間からは、悠長な事言って、ノウテンキと言われそう。でも私は必死である。何故ならば、「書」を残さなければいけない。それも、後の人々に理解してもらう「書」をである。「書生活」していかなければならない。子供の頃に「我に七難八苦をあたえたまえ」と言われた。未だにそれが忘れられない。それは七歳くらいの時。今は✕十である・・・。

(機関誌 泰斗令和六年九月号 巻頭言より)

我に七十難八十苦を与えたまえ

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その57

今回は~【字が上手くなる!!】柳田流のこだわりの「書」について解説します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その56

今回は~【検証】<<放送事故>>書道歴60年の先生は初心者の下手な字を真似できるのか?~です。

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1月9日

新春のご挨拶

謹んで新春のお慶びを申し上げます。

新春の言葉として、慣れ親しんできた言葉である。気持ちが一瞬ではあるが改まる感のする佳き言葉である。同時に大切にしたい。

さて、私は日頃からルーティーン、習慣を大切にしている。例えば、本部教室でお稽古する際も、秋田、浜松、奈良、京都のお稽古時間帯も決めている。時々、それを変更すると違和感すら感じる事がある。お稽古自体がルーティーンであり、習慣である。きちっとした限られた時間帯で確りお稽古するのが一番である。

自身の「書」も同じである。然し、書く時間は一定ではない。少なくとも一ヶ月前、それより前もあるが、必ず予定を組んで製作準備に入る。ただ、その時「書き込みをするんだぞ・・・」という気負いは持たない事にしている。生活の一部として、自然体で構えている。それでも予期しない仕事が入ってくる。それも天の采配として受け止めていく。平坦な道を歩くが如く「書」に対峙していくのが一番良い方法と解ってきた。総てが平常心で自身の制作に打ち込んでいくのが我が流儀となる。

誰でもそうであろうが、何かしらのルーティーン、習慣は持っている。それが歳を重ねる毎に変わってくる。心の中でカウントダウンが始まっている自分には迂闊な行動も出来なくなる。「書」というルーティーンを大切にしないと・・・。

私の最大のルーティーンは百寺納経の制作である。数年後には成就出来るであろう。それまで、そのルーティーンは確りと守らなければいけない。今まで、多くの方々がルーティーンを持っておられる合間に、私のルーティーンに入って頂けるのは感謝の一言である。

今年が、皆様にとって佳き年である事を祈り、時を大切にしながらも無事な一年になる事を祈りたい。

(機関誌 泰斗令和五年一月号 巻頭言より)