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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その133

今回は~【年末ご挨拶】この1年を振り返ってみんなで語ろう!!~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その114

今回は~【新宿にギャラリー新設!!】YouTube初公開で私のアート作品が見れるギャラリーをご紹介します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その113

今回は~【書道×アート】芸術を知って書道の基本に帰る~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その112

今回は~【お遊び回】過去最低?3人の合作アート作品を書いてみた結果~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その111

今回は~【書道に年齢は関係ない】学生展の作品を背景に色々と話します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その110

今回は~【検証】運筆のスピードで「書」はどう印象が変わるのか?~です。

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一つ終えれば・・・

一つ終えれば・・・

昔、和歌山の根来寺で約一年四ヶ月程、お世話になったことがあります。在家の身でありながら、総本山の門をくぐらせていただき、貴重な日々を過ごす事が出来ました。

私の仏道の師である関尚道猊下は、当時すでに「稀に見る高僧」と称される方で、そのような方に仕えることは、身の引き締まる思いというより、むしろ気が滅入るほどの重圧を感じていました。

そんな私に、師は「君は本堂と奥の院の掃除だけをすればよい。あとは経文を書いて過ごしなさい」とだけ仰いました。とは言うものの実際には、参拝団の対応に対し右往左往、慣れない法要の準備、また、給仕や布団敷きなど、多くの雑務にも追われ、慌しい日々を送っていました。その経験は貴重なものとして、その一つ一つが修行だったと今では思っています。これは感謝あるのみです。

忘れられない一つに、奥の院の石畳の回廊を掃除した経験です。掃いても掃いても落ち葉が降り続け、果てしない作業にため息をつきながら掃除をしていた時、ある高僧がこう言ってくださいました。「落ち葉を一枚拾えば、一つ何かが終わり、何かを得ることになるのです」。当時は、それすら理解出来なかった自分でした。その言葉を真に受け入れられたのは百寺納経後半頃でありました。結果、その金言が百寺納経の歩みから満願成就へとつながっていきました。

人は、苦しい時にこそ、自分が何をするべきかを問われる・・・今年は、例年以上にそのことを深く実感する一年となりました。

書人・柳田泰山に関わられている全ての方に心より感謝申し上げます。来年も何卒、宜しくお願い申し上げます。

(機関誌 泰斗令和七年十二月号 巻頭言より)

一つ終えれば・・・

9月19日

事相と教相、聞き慣れぬ言葉ですが、仏道で使われております。事相とは実際にお経や仏道の修業をすることです。教相とは仏道を学術的に徹底して学ぶことです。仏道の世界ではこの二つが両輪の如く行わなければ悟りの境地に行けぬといわれます。大変、仏道は厳しい世界です。

偖、これを「書」に例えればどうなるでしょう。事相とは実際に書くことです。そして教相とは「書」の歴史や書法を学ぶことです。やはり両方が成り立たなければいけませんし、当然でもあります。

然し、私自身は、このことに迷っていることがあります。事相とは実際に徹底的に書くことになり、何かを悟れると考えておりました。当然、それに伴う学問はしますが、やはり人一倍、「書」を書かねばいけないと思っておりました。そこには職人的要素があったのです。日本の文化は職人が原点にあり、精神性が伴い、文化芸術が生まれてきたのではないでしょうか。教相とは前述した通り、書法や歴史を学ぶことです。ではその教相を行うことにより、果たして「書」そのものが成就するでしょうか。どちらが大切かということは敢えて述べませんが、大変、考えるべきことではないでしょうか。

今の書道界はこの二相が無くなりつつあります。ましてや根拠の無い「書」を教えれば教相に走り、教相をすることにより「書」が成り立っていくと錯覚もしております。反面、事相だけを取り上げていけば品格や教養の無い「書」になってしまいます。

昭和の時代に二人の巨匠がおられました。一人が西川寧先生です。もう一人が柳田泰雲です。西川先生は大変なる書学者であり、泰雲先生は大変なる名筆でした。そしてお二人共、二相を持ち合わせていました。お二人は書道界の鑑です。その鑑を見ながら私たちは学書しなければなりません。

会員諸氏も、事相と教相の両輪を大切にと戒めを持って励んで頂きたいと存じます。(泰斗 平成十三年八月号より)

9月1日

まさに、今の心境である。

それにはまず行動が伴わなければならない。そこで改めて「書」の原点である古典を見直すべきであろうと思った。ここで専門的な「書」を語るつもりはないが、楷書を考えたならば、中国、魏晋・北魏・唐宋・明清に渉る長い書道史の変遷を見なければならない。今からでは至難の業であるが、柳田楷法の原点と言ったならば楷書であり、やはり唐代楷書を再考しなければならない。それと同時に晋代、王羲之の「書」も改めて紐解かないといけない。これは齢よわい七十になってからでは難しい。然し、先代、先人達は行っていた。殊に、先代の古典に対する執着は衰えというものを知らぬ位であった。亡くなる寸前まで、そこに拘っていた。その姿を見ているからこそ、逆に肩の荷が重い。「書」の究極の世界を窺い知れず日々を過ごしている自分には辟易している。反省もしなければならぬ。

行動に加え、思想も改めて考え直さないといけない。百寺納経に邁進している訳だから、自ずと神佛との出会いが必然的に出てきた。折角の出会いを活かさなければならない。現在七十八箇寺となっているが、自分にとって各寺院とのお付き合いでそれなりに影響もあり、変化を齎もたらしている。それは若い時、仏道の入口に立ちかけた経験を今でも鮮明に覚えているからである。それが無ければ今日の自分はないであろう。その事は両親に感謝、その時に出会った人々に感謝。そして佛道の師にも感謝。今まで生きて来られたのは、現在でも「書」の師、仏道の師の慈愛であろうか。

 行動と思想が伴わないといけない。それを言い換えれば「書」と「信仰」となる。と言うより「書」に信仰的精神がなければならない。恐らく、俳句、短歌、文学、能、歌舞伎等々、信仰無くして芸は実らない。 さて、自分の中で如何なる事になるか。未だ迷いの中にいる自分、ジレンマ、トラウマ…それを乗り越えて前に進まなければならない。重いものを背負って行かなければならない。もっと軽い気持ちで人生を歩めばと違う自分がいる。それではいけない。やはり精一杯、「書」を背負い、神佛のご加護を受けたい。もっともそのご加護は、「書」の精進次第であろう。生半可な「書」では到底ご加護は受けられない。

令和二年九月