News

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その129

今回は~【泰斗11月号】お手本を書きながら泰斗と「書」について語ります。~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その128

今回は~【書道歴70年】柳田泰山が明かす良い作品の審査基準~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その127

今回は~【大字がうまく書けない人へ】大字の書き方を劇的に変える!柳田流の秘訣~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その126

今回は~【正しい楷書はどれだ!?】柳田流の楷書のこだわりについて解説します。~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

模倣はもっとも誠実な称賛の形

模倣はもっとも誠実な称賛の形

「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。

たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。

臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。

ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。

要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。

(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)

模倣はもっとも誠実な称賛の形

10月21日

この度、縁あって、福岡で書展を開催する運びとなりました。

今年、上野の森美術館で第二十八回泰書展を開催致しました折、特別展として「アート展」と称し、今までとは違った観点の小展覧会を開催致しました。

書道の概念は文房四寳(墨・筆・紙・硯)から成り立っているものが筋でもあります。然し、近代において文房四寳を使用しながらもモダンアートにと言う表現で「書」の領域が広がりました。賛否両論はありますが、芸術の域としては決して否定も出来ないと私は思っております。ただ、本筋の「書」そのものの鍛錬を怠ってはいけない事も事実であります。

「書」の一点一画は、部分として見ますと美しい線が画かれているのもあります。最たるものは、日本の書芸術として仮名世界がそうではないかと思います。以前、その仮名の線の一部を切り取り拡大をしたところ、一本数ミリの中に活き活きとした線を発見することも出来ました。

現在、楷書を中心とした試行錯誤が顕著になっており、今後の「書」に如何に対峙していくかの模索の心境になっております。今回の様な一つのきっかけで、小さき世界の発見があり、そこから原点回帰に繋がる事を意識しつつもあります。今回の書展は自分に対しての新たなる挑戦の一歩、それが、どの様に「楷書」の道に繋がるかの期待感もあります。

初めての九州での書展、どうか九州・福岡に在住のお知り合いがございましたならば、お知らせして頂き、ご高覧頂ければ幸いです。

私自身、十一月三日(木・祝)・四日(金)の午前十一時より午後五時まで会場におります。お声をかけて頂ければ幸いです。

10月18日

今回は~柳田泰山70歳の仕事風景~です。

よろしければ御視聴・チャンネル登録よろしくお願い致します。

10月6日

繪事後素(かいじはそをのちにす)

論語の言葉である。「絵画では、さまざまな色を塗った後に、白色の絵の具を最後に施して仕上げる・・・」ということを述べている。それは物事の順序であり、さまざまな教養を積んで下地を充分にしたのち礼を学べば、教養が引き立って人格が完成する。自分にってこそばゆい言葉である。

自分は決して、師として「書」を指導している立場ではないと思う。人の師となることは、どの様な根拠と基準によるものか定かではない。それは今の教育にも通ずるであろう。教育はさておき、「下地云々」に話を戻す。絵画だけでなく、「書」にも「繪事後素」がある。「書」を始める時、如何に下地を大切にするかである。下地とは基本運筆であると言えるが、その前段階がある。それは「書」に対する姿勢である。「心技体」の姿勢である。それを疎かにしては、本来の「書」の道から外れる。とは言うものの、現代ではそれが困難な状況とも言える。悩ましいものである。「生業」が大きく立ちはだかっている。この世の中、霞を食べて生きてはいけないのである。然し、書人としての魂を持っている以上、その「生業」と「生き甲斐」の区別をしなくてはならない。「生」以外の「書」もあるであろう。それは仏様に向かっての合掌のようなものである。

この歳になると、人生のカウントダウンが始まる。それは書人としての生き方をも言っている。先ほど述べた「心技体」である。先ず、体力が衰えると「体」が崩れ、一つ崩れれば「心技」にも影響が出てくる。難しい問題である。だからこそ今、生きている自分がベストを尽くさなければならない。いつか来る何かに対して覚悟しなければいけない。心の準備でもある。

「繪事後素」からの連想である。特に、現在、指導させて頂いている方々に感謝、一人一人に真摯なる姿勢で、私の「書」の経験を伝えたく述べたものである。

(機関誌 泰斗令和四年十月号 巻頭言より)