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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その49

今回は~第二十八回泰書展を終えて。~です。

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方向性

前号の続きであるが、文化遺産に携わっている方は大変なご苦労がある。然し皮肉にも人類は、破壊に向かっている。脳もAIに浸食されている。文化どころではない。だからこそ、文化を守ろうとしているのであろう。芸術・文化の発展はどうなるであろうか。

「書」に関して言えば、先ず、道具、材料が無くなった。筆はナイロン、墨は墨汁、紙はパルプ、硯はセラミック、その中で善いものが生まれる筈がない。よしんば、良い物を手に入れたとしても、かなりの高額になる。お金が無ければ良いものは生まれない。前号の貴族的立場の人しか生き残れない。「書」の世界は危機的な現状である。もう終わっているのかも知れない。

その様な中で、文化がどうのこうのは矛盾している。反論の方は大勢おられる。現実、その世界に携わっている方々には悲劇である。周りは「そんな事はない。クラウドファンディング、国から基金・支援金・給付金等々をして貰えばいいのでは・・・」本当に無責任である。言うは易しである。

これはかなりネガティブである。私自身は少々疲れている。自分で蒔いた種で自爆になりかねない。作品を書く上で、筆、紙、墨、硯を固守している事が。やや力尽きている部分がある。あの、鳥の子特号紙が使えた時代が懐かしい。筆も羊毫と言って、馬の毛以上に品質が良い時代があった。墨は膠が無くなり、硯は凡人の手には入らなくなってしまった。人間、ヤケクソになってはいけない。さて、これから残りの人生、道具とどの様に対峙していくのか、考えさせられる。

指導をしている立場であるから、会員にも出来うる限り考慮して行きたい。七十を過ぎ、ベストを尽くし真摯な指導・・・。楽しい時間をつぶし、生業的な「書」では無く、「書」を守る文化を伝えたい。それこそ伝統文化の良さを多くの方に知ってもらいたいが為に最善を尽くしていきたい。

しれにしても現実は怖いもの。天変地異の中、人間は未だに自らが破壊行為に進んでいるのである。

(機関誌 泰斗令和六年三月号 巻頭言より)

方向性

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その48

今回は~【浜松市 書道教室】浜松市にあるお寺でのお稽古のお様子を公開します。~です。

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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その47

今回は~【浜松市 書道教室】浜松市にあるお寺でのお稽古のお様子を公開します。~です。

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福岡 柳田泰山書展「神の道」開催のお知らせ

この度、縁あって、福岡で書展を開催する運びとなりました。

今年、上野の森美術館で第二十八回泰書展を開催致しました折、特別展として「アート展」と称し、今までとは違った観点の小展覧会を開催致しました。

書道の概念は文房四寳(墨・筆・紙・硯)から成り立っているものが筋でもあります。然し、近代において文房四寳を使用しながらもモダンアートにと言う表現で「書」の領域が広がりました。賛否両論はありますが、芸術の域としては決して否定も出来ないと私は思っております。ただ、本筋の「書」そのものの鍛錬を怠ってはいけない事も事実であります。

「書」の一点一画は、部分として見ますと美しい線が画かれているのもあります。最たるものは、日本の書芸術として仮名世界がそうではないかと思います。以前、その仮名の線の一部を切り取り拡大をしたところ、一本数ミリの中に活き活きとした線を発見することも出来ました。

現在、楷書を中心とした試行錯誤が顕著になっており、今後の「書」に如何に対峙していくかの模索の心境になっております。今回の様な一つのきっかけで、小さき世界の発見があり、そこから原点回帰に繋がる事を意識しつつもあります。今回の書展は自分に対しての新たなる挑戦の一歩、それが、どの様に「楷書」の道に繋がるかの期待感もあります。

初めての九州での書展、どうか九州・福岡に在住のお知り合いがございましたならば、お知らせして頂き、ご高覧頂ければ幸いです。

私自身、十一月三日(木・祝)・四日(金)の午前十一時より午後五時まで会場におります。お声をかけて頂ければ幸いです。

10月18日

今回は~柳田泰山70歳の仕事風景~です。

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10月6日

繪事後素(かいじはそをのちにす)

論語の言葉である。「絵画では、さまざまな色を塗った後に、白色の絵の具を最後に施して仕上げる・・・」ということを述べている。それは物事の順序であり、さまざまな教養を積んで下地を充分にしたのち礼を学べば、教養が引き立って人格が完成する。自分にってこそばゆい言葉である。

自分は決して、師として「書」を指導している立場ではないと思う。人の師となることは、どの様な根拠と基準によるものか定かではない。それは今の教育にも通ずるであろう。教育はさておき、「下地云々」に話を戻す。絵画だけでなく、「書」にも「繪事後素」がある。「書」を始める時、如何に下地を大切にするかである。下地とは基本運筆であると言えるが、その前段階がある。それは「書」に対する姿勢である。「心技体」の姿勢である。それを疎かにしては、本来の「書」の道から外れる。とは言うものの、現代ではそれが困難な状況とも言える。悩ましいものである。「生業」が大きく立ちはだかっている。この世の中、霞を食べて生きてはいけないのである。然し、書人としての魂を持っている以上、その「生業」と「生き甲斐」の区別をしなくてはならない。「生」以外の「書」もあるであろう。それは仏様に向かっての合掌のようなものである。

この歳になると、人生のカウントダウンが始まる。それは書人としての生き方をも言っている。先ほど述べた「心技体」である。先ず、体力が衰えると「体」が崩れ、一つ崩れれば「心技」にも影響が出てくる。難しい問題である。だからこそ今、生きている自分がベストを尽くさなければならない。いつか来る何かに対して覚悟しなければいけない。心の準備でもある。

「繪事後素」からの連想である。特に、現在、指導させて頂いている方々に感謝、一人一人に真摯なる姿勢で、私の「書」の経験を伝えたく述べたものである。

(機関誌 泰斗令和四年十月号 巻頭言より)