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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その83
今回は~【バレンタインデー企画】チョコペンを上手く使えば筆と墨のように使えるか検証してみた。~です。
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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その82
今回は~柳田泰山が古き良き日本の文化と2024年の目標を語る。~です。
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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その81
今回は~【虞世南】臨書について徹底解説します。~です。
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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その80
今回は~1ヶ月ぶりに半折を書いてみた~です。
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Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その79
今回は~柳田泰山が中国を何度も訪れる理由と思い出を語る。~です。
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納経と継承
納経と継承
平成六年から始めた百寺納経。当然、定かでは無い志であった。そして、この発願は泰書會創立と重なった。「書」の継承としては、先代泰雲の「楷書」を継承すべきであると、日頃から会員諸氏に伝えている。ただ、心のどこかでは先代と同じ事を真似ているのではと思うが、それが当たり前と言い聞かせていた。しかし脳の片隅で、先代と違うものをという思いもあった。書風としては先代とは別に、二代・泰麓の書風がいつか真似出来れば・・・という考えもあった。それがここ数年の泰斗誌五律楷書手本に表れている。初代・正齋から始まり、泰麓、泰雲の芸風が交叉しつつ、試行錯誤もしている。「書」の継承と、思想の継承は難しい。と言うよりは不可能である。寧ろ、それを土台に、自身の「書」を見出すべきである。
さて、百寺納経は、元を正せば、自分の考えでは無かった。これも泰雲の影響があった。自分が二十代の時に、ある高僧に泰雲が語っていたのを聞いていた。「僕は、般若心経を百の寺に納めたい・・・」。
日本という国は、伝統と継承を重んずる国である。百年、二百年続いている伝統・継承はまだまだ存在している。その継承者の方々と一緒に肩を並べたとは、些か自惚れた話ではあろうか。
今、百寺納経の一覧を作成してみて百箇寺まで来た事を謹んで、ここにご報告させて頂きます。
(機関誌 泰斗令和七年四月号 巻頭言より)

Youtubeチャンネル「書人柳田泰山」その74
今回は~【関東第一高等学校100周年記念行事】柳田泰山、学校にて100人書きに挑戦!!~です。
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4月3日
「信心」と「書」
平成六年から百寺納経が続いている。現在、八十数箇寺と長い年月が経過している。さて、これだけ皆様のご加護を受けているのにも拘わらず、果たして自分には信心があるのであろうか。以前、自分の作品に物足らなさを感じた時があり、何かが不足しているのではと思った事がある、現在もその様な思いに駆られる時がある。結論には至らないが、もしかしてそれは「信心」ではないかと思う節もある。では信心とは何か? この「泰斗」誌はお寺関係の方も読んでおられると聞き及んでいる。不用意に「信心」を語るのは僭越過ぎるであろう。
「書」を長年続けていると、仏教でいう「悟」なのか「無我」「無心」かと思ってしまう世界があると錯覚する事がある。しかし、それは大きな間違いである。結局のところ、未だにはっきりしないで日々、経文を書き続けている自分がいる。現世的次元から、もう一つ違った次元があるのでは無かろうかと思ったりもしている。それを敢えて「信心」と言いたいのかもしれない。
「信心」とは・・・信ずる心と解釈している。その対象が果たして仏様なのか、神様なのか、それとももっと違う次元の物なのか解らない。だからと言って無神論者とも言い切れない。どこかに「真」を信じて求めているのかもしれない。
努力すればいい世界が得られると信じられているが・・・神社仏閣に行きお賽銭を上げる事によって、神頼み、仏頼みでお願い事をするのと同じ様な気がする。私にとっては、お金を払って神仏のご加護を得るのは不思議な事と思う。勿論、お賽銭によって、安穏、平和、相手を慈しむのはよいと思う。これは矛盾するかも知れないが、それこそ神様、仏様、何かに委ねようという事。ただ、私利私欲の為のお賽銭は私には理解出来ない。お賽銭的なものの考えで努力して書いたものに、神仏のご加護があろう筈がない。
お叱りを受ける巻頭言ではあるが、百寺納経に免じて許して貰いたい。
(機関紙泰斗 令和4年4月号 巻頭言より)