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模倣はもっとも誠実な称賛の形
模倣はもっとも誠実な称賛の形
「模倣はもっとも誠実な称賛の形」という言葉がある。模倣とは、すでにあるもの(人の行為・作品・様式・考え方など)を手本として、形ややり方を写し取ることをいう。模倣なくして継承なし。良い模倣は、やがて「自分の書」を生む。「書」の世界にも深く通じる真理である。古典臨書とは、過去の名筆を忠実に写し取ることによって、「書」の技法と精神性の両方を学ぶ修練であり、単なる技術練習にとどまらず、先人への敬意と理解を形にする行為でもある。
たとえば、王羲之、顔真卿、空海といった書の巨匠の作品は、時代を超えて今日まで学ばれ、繰り返し模倣され続けてきた。それは、彼らの「書」が、一時代の流行にとどまらぬ普遍的な芸術性を備え、後の書き手にとって創造の原点であり続けているからにほかならない。
臨書は、一見すると創造性に乏しい「なぞり書き」のように見えるかもしれない。しかし実際には、書き手が古典を模倣する過程で、筆遣いの奥にある思想や精神、さらにはその書を生んだ人間の在り方にまで触れ、それを自分自身の表現へと昇華させていく創造的な行為である。現代の書道家が古典を学ぶ意味も、単に過去をなぞることではなく、古典の精神を現代の感性と結びつけ、新たな表現として生かす点にある。
ゆえに、臨書による模倣は決して軽視されるべきものではない。その中には常に新しい表現へとつながる可能性がひそんでおり、むしろそれこそが「書」という芸術の本質に近づく、最も誠実な道であると言える。臨書は、古典と現代とを結ぶ確かな架け橋なのである。
要するに、古典を模倣し、学び、積み重ねていく過程があってこそ、現代の「書」は成立しているのである。
(機関誌 泰斗令和八年三月号 巻頭言より)
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10月1日
書き貫く
三十年の歳月をかけて、ただひたすら経文を書き続けてきた。筆を取り、心を静め、古風豊かな和紙に一字一字を刻むその営みは、単なる書写を超えて、一種の修行であり、辛いものであった。
書体は当然、楷書。整い、乱れず、常に同じ調子を保つことは、容易なことではない。しかしこの正しさの中にこそ、書き手の精神が反映される。楷書にはごまかしがきかない。心が乱れれば、線も歪む。だからこそ、毎回筆を取るたびに、己の内面と対峙しなければならなかった。厳しい世界でもあった。
墨を磨る時間もまた、かけがえのないものであった。墨の香に包まれながら、手を止め、古き良き伝統の墨を磨る時は、過去を思う時もある。そして、いつしか墨を磨る時、「書くこと」が目的ではなく、「書き貫くこと」そのものが生きる支えとなってきた。
日々経文を書き、同じ文字を書いていても、不思議と一度たりとも々「書」にはならない。体調、天候、心のわずかな揺れすらが筆先に現れる。逆にいえば、三十年の書の積み重ねには、その時その時のすべてが映し出されている。そこには、表現を超えた「精神の形」が宿っていると感じる。
書くという行為の先に、祈りがあり、願いがあり、そして己の静かな在り方があった。ただ書くのではなく、「書き貫く・・・」。この三十年間は、経文を通して自らを見つめ続けた、終わりなき道のりであった。
(機関誌 泰斗令和七年十月号 巻頭言より)
